2021.1.31 嵐を静め、悪霊を追い出すキリスト… ルカ8:22~39―

 

世界はなかなかコロナ禍から抜け出せずにいます。“医療崩壊”が始まっているとの報道、新種のウイルス感染者、死者数の増加、、、

近く、ワクチン接種が始まると言われていますが、“夜明け”はまだ遠いように感じます。

“不安”は新型コロナに留まりません。TVの報道によると今のままで行けば、10年後の2030年には地球の平均気温は“臨界点”に達して温暖化は加速し、平均気温は4度以上も上昇、アジアでは“夏のオリンピック”を始めとした“スポーツ・イベント”は、屋外ではできなくなるそうです。

8月・9月の“猛暑期間日数”は、今の倍以上になり、夏は外出自粛となります。北極や南極の氷が解け、海水温は上昇し、海鮮寿司なども姿を消す…すでに過去100年間で世界の平均海水面は16センチも上昇していて、これからは増々高くなるというのです。シベリアの凍土が溶け、

過去の時代封じ込められていた膨大な量のウイルスやメタンガスが発生し、人類は存亡の危機を迎えるというのです。

また毎夏の大型台風による“大雨洪水警戒警報”の発令、火山の爆発や、大地震、、、人に災いをもたらす“闇の力”は、私たちのすぐそばに、近づいています。…今や、私たちが生きるこの世界、“不安の材料”にこと欠くことはありません。

 

I. 嵐を静められる、イエス・キリストと共に!

▼さて、聖書のお話に入りましょう。――ヨルダン渓谷に位置するガリラヤ湖は、南北21km、東西13kmからなる淡水湖です。湖面は海抜マイナス210メートルの低さにあって、険しい岩山に囲まれた湖です。この特殊な地形の為、時に、夜になると“周囲の山々から”吹きおろしの激しい風”が降りて来ます。 …そんな日の、“夕暮れ時”主は弟子たちにルカ8:22→「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたのです。

一日の厳しい伝道活動を終えて後、東への舟旅…ゲラサ人の地までは、南東方面約14キロ、時間にして約一時間半位の舟旅でした。

疲れておられたイエス様は、この小さな漁船の中で「ぐっすりと眠ってしまわれた」(8:23)のです。

▼この箇所を通して、お疲れになることがあったイエス様に慰められるのです。イエス様は本当に疲れておられました。私たちはしばしば、「ああ疲れた、疲れた。しんどいなー。眠くてたまらない。もう明日仕事行きたくない!」…そんな時ありませんか?イエス様のこの時の“熟睡度”…相当高かったのです…。

▼W・バークレーという聖書注解者は、この箇所をこう描き記しています。

「ルカはこの物語を…生き生きと描いている。…イエスが湖を渡ることにしたのは、疑いなく、休息を必要としたからである。…漕ぎ始めて程なくイエスは眠りに落ちた。…イエスの眠っている姿を想像するのは何と心楽しいことだろう。…我々と全く同じように彼も疲れを覚えられたのだ。 彼もまた“消耗の域”に達し、この時“激しい睡魔”に襲われていた。 彼は弟子たちを信頼していた。彼らはこの湖の“漁師”だったからである。」

…彼(キリスト)は主の前に、ひこばえ(孫生え)のように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼は蔑(うと)まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。…」 イザヤ5313 

これが人となって下さったイエス・キリストの生身の姿です。イザヤのこの言葉にほっとしませんか?

▼…さて、そんなイエス様が休んでおられた舟に危機が訪れます。…舟を転覆させる程の強い「突風が湖に吹きおろし」て来て、彼らを危険に陥れたからです。舟の浸水が始まりました。…たまらず弟子たちは、「…眠っておられるイエス様を起こして、「先生、先生(ヘブル語では『ラビ』)」と呼びかけ、私たちはおぼれて死にそうです」と激しく訴えました。マルコは更に強い口調でこの部分を記しています。マルコ4:38→「先生、私たちが死んでもかまわないのですか!」マタイ8:25→「主よ、助けて下さい。私たちは死んでしまいます。」と…。

弟子はみな元漁師でした。彼らはこの湖で何十年も生きて来て、ガリラヤ湖について、その知識も豊富だったはずです。…そんな彼らが怯え、慌てふためいているのです。これは、この時の“突風”がいかに激しいものだったかを示しています。 

▼私たちには人生が制御できない時があります。コロナのこと、仕事のこと、経済的なこと、これからのこと、いのちのこと…考えれば考える程、不安になる時があるのではないでしょうか?…しかし、そのような夜にもイエス様が熟睡されていたのです。これは慰めではありませんか?

考えると、このイエス様の“爆睡”はこの嵐が“制御不能”なものではなかったことを示しています。イエス様はこの激しい嵐にあっても、万事を益として下さる父なる神の愛の御手の中にあることをご存知でした。ですから私たちは眠りにつく前に、「主よ。この夜、私をお守り下さい。私の体、私のたましい、…私の全てのものをあなたの御手にお委ねします。…絶対的にあなたを信頼する力をお与え下さい!」そう祈る必要があるのです。

 「…しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」 マタイ1029

イエス様は起き上がると、8:24→「…風と荒波とをしかりつけ」ました。すると「風が波も収まり、波も収まり、凪が訪れた…」のです。

興味深いのは、イエス様が直接的に「風と荒波」を叱りつけられたことです。まるで人間に対するかのように。

これはマルコ1:25→「黙れ。この人から出て行け!」と悪霊に叫ばれたのと同じです。イエス様は全ての世界、次元にあって、

全ての支配者であるということが判ります。

その上でイエスは弟子たちに、「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」(8:25)と言われました。

▼イギリスが誇る“タイタニック号”は、かつて“絶対に沈まない船”と言われていました。でも、映画の中で、「鉄は沈むものだ…」と乗客に言わせていたのは印象的でした。確かにどんな舟でも沈む可能性があるのです。この木造船の場合は、なおのことでした。しかしながら舟には、神の御子イエスが一緒に乗って下さっていました。イエス様と同船している舟が沈むことなどあり得ません。そのことを私たちは信じ、疑ってはなりません。弟子たちは助かりました。彼らがイエス様にすがったからです。 彼らはこの出来事”を通して、イエス様が単なる律法の教師ではなく、

8:25→「…風も水も、お命じになれば従」わせる“真の権威者”であることを知りました。

世に勝つ者とは誰でしょう。イエスを神の子と信じる者ではありませんか!  Ⅰヨハネ5:5

あなた方は心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。  ヨハネ14:1

イエス様は弟子たちに信仰心があることは認めておられたのです。しかし主は彼らに言われました。ルカ8:25→「あなた方の信仰はどこにあるのです」。マタイの福音書ではこうあります。マタイ8:26→「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち」マルコ4:40では→「どうして怖がるのですか、まだ信仰がないのですか。」

私たちに対しても主は同じように言われています。私たちの信仰は余りにも弱いのでは?薄いのではないでしょうか?いったいどこに信仰があると言うのでしょう?イエス様と一緒に生かされているのに…。いつも、私たちの傍らに、私たちのためにいのちを捨て、よみがえられたイエス様が共におられるのですから、どんな“人生の嵐”に直面しようとも、私たちは何ものをも恐れる必要はないのです。堅く信仰に立って歩みましょう。

「見よ。私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいます。」マタイ2820

 

II. 悪霊を退かせるキリストと共に!

一行はゲラサ人の地に着きました。ここの人々は“まことの神”を知らない異邦の人たちでした。

さて陸に上がるとすぐに“悪霊に憑かれている男たち”と出会いました。マタイ8:28「悪霊に憑かれた人が二人」とあります。

墓場には、実は二人の狂人が繋がれていたのです。マルコとルカは、このうちの一人にスポットを当てて記しています。

27→「彼は、長い間、服を身に着けず、家に住まないで、墓場に住んでいた」のです。彼は、完全に悪霊の支配下に置かれ、“人間としての感覚”を失い、“人”として扱われず、捨てられて、墓場に鎖で縛りつけられていたのです。ガリラヤ湖の南西部の湖岸には花崗岩の洞穴が沢山あり、人々は墓として利用してもいました。そんな洞窟に二人は閉じ込められていました。そのような男にイエス様は出会って下さったのです。

いやこのゲラサ人の地にわざわざ湖を渡って来られたのは、この二人の男に出会い、彼らを救う為であったのです。

 「人の子は、失われた人を捜し出して救う為に来たのです。」 ルカ19-10

●――悪霊はイエスの力を信じ、人はイエスを信じない…という“皮肉”な話――●

マルコは、5:6→「(男は)イエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し」と記しています。…つまり、悪霊は、誰よりも“イエスの権威と力”とを知っていて、ここで完全にイエス様に降参していることが分かるのです。悪霊どもは、イエス様に対しては、逃げようがないと諦め、あわれみを請うしかないと知っていたのです。…何と、六千もの悪霊軍団がです、全員一致して、

この方を28→「いと高き神の子、イエス様」と認めています。

他方弟子たちはと言うとどうでしょう?8:25→「…いったいこの方はどういう方なのだろうか。」弟子たち同士で、互いに驚いているのです。…皮肉な話です。サタンや悪霊どもですらイエス様を神の御子と認めているのに、主の弟子たちですら、そして私たちが生きるこの時代も同じく、災害が起こっても、コロナ禍にあってもキリストをなかなか神と信じません。先ほど見たように、風や海といった自然界ですら、イエス様のひとことに服従しているというのにまことに不思議な話です。

29→この人は、「鎖や足かせでつながれて看視される」必要がある、非常に危険な男でした。

主がこの男に名を尋ねると、「レギオン」と答えましたが、それは、ローマの軍団の単位で、六千人もの兵士から構成される大集団でした。そして、8:31→「悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、と自分たちにお命じにならないように…おびただしい豚の群れに…入ることを許してください」と懇願したのです。

これは、悪霊がイエスの権威に完全に服さざるを得ないことを示しています。

イエスが許されると、33→「豚の群れはいきなりがけを駆け下って湖に入り、おぼれ死んだ」のです。

豚の飼い主たちはこのことに驚き、37→イエスにこの村を出て行ってくれと頼むのでした。彼らは、悪霊よりも強いイエスを恐れたのです。

 

III. 家に帰って家族に、どんなに大きな祝福を下さったかを、話して(証詞・伝道)聞かせよ!

悪霊どもはこの男から豚に乗り移っていったのですが、この豚の数、半端ではありません。マルコ5:13によれば、その数は二千頭に及んでいます。ローマの軍人で言えば六千、豚に替えれば二千頭…、何という“恐るべき力”でしょう。これらの悪霊の大群を、あっと言う間にイエス様は退治なさったのですから…。村の人々は、8:35→「恐れた」のです。

この癒された男はかつて同じ村の仲間だった男が癒されたというのに、そんな喜びより、人々はレギオンに憑かれた人を見て悪霊に怯え、また悪霊を追い出したイエスを見てさらに怯えているのです。彼らには自分たちの身に損害がもたらされることを避けようとする思いがあるだけで、真理を求める心はありませんでした。

●――あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい!――●

「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい」  ルカ8-39

▼彼はイエス様について行きたかったのです。8:38→「お供をしたいとしきりに願った。」と書かれています。こんな奇跡を経験すればイエス様について行きたいと誰でも思うに違いありません。こんな冷たい人たちしかいない村に留まりたいと誰が思うでしょうか?今やこの男には、家も家庭もいないも同然なのですから…。

しかしイエス様は、彼にマルコ5:19→「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい…」と言われました。

このみ言葉の中に、私たちはキリスト者の証しの在り方を考えさせられるのです。キリスト者の証しは、まず何よりも、家庭、家族の中において表されなければなりません。…見ず知らずの人々の間で、キリストを証詞して生きることはそれほど難しいことではありません。ですが家庭では難しいのです。この男の場合、家はこの村にありました。そこで証詞をしながら生きることは難しいことであり、それはイエス様について行くことよりも難しいことだったのです。

しかし、主はこの地に留まり、福音をこの地で彼に伝え続けるよう命じられたのでした。

イエス様はペテロやヤコブの故郷で彼らに伝道させました。…そうやってこの男は故郷での伝道に専心し、ついに8:39→結果的に、彼は故郷でこの素晴らしいイエスの福音を伝えたのです。マルコ5:18~20を読みましょう。

▼あなたにも、あなたにしか届けられない“魂”があり、あなたはその方に福音を分かち合うように召されているのではないでしょうか?

イエス様がこの男に起こして下さった変化は、この人を“悪霊の支配”から解放しただけでなく、この人が、自分よりも豚を気にかける“冷たい人々”のただ中に住み、その人々に福音を告げさせるということでした。

誰の役にも立たなかった、人々の恐怖の的であった男たちは、イエスに出会って今やこの男たちでしかできない働きを見い出したのです。人は誰しも、心の底で、“生き甲斐のある人生”を求めています。“無用の存在”として軽蔑されるのは、何よりも辛いことだからです。イエスの救いは、“現実逃避”をもたらすものではありません。逆に主は私たちに“私でなければできない特別な働きの場”を与えて、この世のただ中で命を輝かせるために“逆境”をも与えて下さっているお方なのです。

ただのひとことで、“大嵐”を静め、“強力この上ない悪霊”を追い出されるお方が、あなたの人生の真の同伴者なのです。

 

イエス様が共に歩んで下さるので、私たちは人生の海の嵐のただ中に漕ぎ出すことが出来ます。見せかけの平和ではなく、私たちは置かれている状況に関わりのない真の平和(シャローム)を、イエスとの交わりの中に見い出すことができるのです

 

 

 

2020.8.23   圧倒的勝利への道   ―ローマ8:31~39―

この箇所には、クリスチャンが圧倒的勝利者として人生を歩む為の秘訣が述べられている。

 

I 神が私たちの味方であれば、何者も私たちに敵対することはできない

31~32→「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んで下さらないことがありましょう。」

パウロは、「神が私たちの味方であるなら、一体誰が私たちに敵対できるだろうか?」と問いかけている。

これは疑問文の形で記されているが、断定へと至らせる強い疑問文(断定的疑問文)である。私たちの周囲には、敵対する様々な勢力が存在し、

パウロも、35~36→でそのように告白している。→「(誰が)私たちをキリストの愛から引き離すのは(誰)ですか。

患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」…」

聖書が書かれた当時、イエスを信じることで多くの人々が迫害を受けた。ある者たちは“荒野”に追いやられて渇き飢え、

ある者は地下の不潔な共同墓地に隠れてひっそりと生きなければならなかった。彼らはまさに「ほふられる羊」のような存在であった。

この記述は迫害の激しさがどれほどひどかったかを物語っている。

キリスト教の国ではなくても、今現在、迫害の中に苦しむ人たちもいる。

8:35~36→「私たちをキリストの愛から引き離すのは誰ですか(誰が…ですか)。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、

危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」

「…神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対することができるだろうか?誰もできはしない!」

どのような勢力があっても、神が私たちの味方であるなら、誰も私たちに敵対することはできない。なぜなら神はこの天地万物を造られた創造主、

全能者であって、全てを支配しておられる方だからである。神は王の王、主の主であられる方である。この方に敵対できる者など何もないからだ。

イザヤ40:28~31→あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、

その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。

しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

▼ダビデは多くの敵に取り囲まれたとき、こう告白した。

主よ。何と私の敵が増えてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない」と。しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主が支えて下さるから。私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。 

詩篇3:3~6

ダビデは同じような状況の中でも、主が共にいて守って下さると強く確信していた。全世界を敵に回しても、神が共にいて下さるなら、

それに屈しないで大胆に生きていくことができるのである。

▼神が私たちの味方であることをどうやって知ることができるか?それはキリストの十字架と復活の力によってである。

32→「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、

私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

神は私たち全ての為にご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡して下さった。復活して下さった。そして永遠の御国を用意して下さっている。

だからどうして、御子といっしょに全てのものを、私たちに恵んで下さらないことがあるだろうか?神は御子と一緒に全てのものを私たちに恵んで下さる。だから大切なことは、このことをしっかり覚えて生きることが大切だ。神様が私たちの味方であるなら、何があっても大丈夫!

神様は私たちをつかんだら絶対に離されない。これが神の愛である。

 

Ⅱ. 神が私たちを義と認めて下さる!

33~34節→ 神に選ばれた人々を訴えるのは誰ですか。神が義と認めて下さるのです。 罪に定めようとするのは誰ですか。

死んで下さった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなして下さるのです。

神様は私たちをイエス・キリストの十字架の血潮で救って下さった。だから誰かが私たちを罪に定めようとしても、絶対にできない。それは神が義と認めて下さったことだからだ。「義と認められる」ということばは法律用語で、裁判の時に、無罪と宣言されることを意味している。人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているが(ヘブル9:27)、その最後の審判において、全く無罪と宣言されるというのである。

どうしてこういうことが成立するのか?イエス様が私たちの身代わりに十字架でかかって死なれ、私たちが受けるべき罪の刑罰を受けて下さったからだ。イエス様が人間としてこの地上に来られたのはその為であった。人間が神様に正しい者と認められるには、まず、神の基準を守らなければならなかった。その基準とは「律法」である。ところが人類は、それを守ることができなかった。それでイエス様が代わりに罰を受けて下さり、そのイエス様が私たちの心に入り、私たちは「正しい者」と認められるようになった。 これが神の救いなのだ。

キリストが律法を終わらせたので、信じる人はみな義と認められるのです。 ローマ10:4

ところが人間はこの神の恵みを極端に嫌い、どうしても自分の力で救われようとする傾向がある。自分の努力、自分の修行、自分の信仰心、自分の忍耐など、そうやって自分の思いどおりになると、自分を誇るのである。実際には全く誇れるような人間など一人もいないのに…である。心が汚れ、足の先から頭の髪の毛の先まで罪のかたまりである私たちが、どうやって自分を誇れるというのか?そのような私たちを義と認めて下さるのは、天から下って下さった神の恵みイエス・キリスト以外にはないのだ。ただ頭を垂れて、悔い改め、イエス様を信じる以外に道はない。

悪魔が色々な方法を駆使して、どんなにクリスチャンを訴えたとしても、少しも恐れる必要はない。私たちが生きる為に死んで下さった方、またよみがえられたお方、キリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちの為にとりなして下さる(弁護して下さる)からだ。つまり、私たちの罪の為に十字架にかかって死んで下さったイエス様が、私たちが支払わなければならない罪の代価を支払って下さったと弁護して下さるということである。私たちの神様は、裁判官のようなお方である。イエスキリストは私たちの弁護士のようなお方だ。だから大切なことは、この神の義認の宣言を感謝して受け止め、いつも悔い改めて、この神とともに生きることだ。そうすれば私たちの救いの確信は確かなものとなり、私たちの信仰生活もいのちに満ち溢れたものとなるのだ。

 

Ⅲ. あなたは、圧倒的な勝利者となる!

私たちはこのキリストにあって圧倒的な勝利者になることができるということだ。

35~37節→「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛して下さった方によって、これら全てのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」

31節から39節まではわずか9節しかない。だが、実に勝利に満ち溢れた宣言である。できればこの箇所は全部暗記したい。このみことばを握りしめて最後まで進む人には、天での報いが保証されているからだ。実際、当時は激しい迫害の中で、信仰が萎んでしまうようなこともあったが、主の御霊が彼らと共におられたので、どんなことがあっても、「これらすべての中にあっても」圧倒的な勝利者となったのだ。

▼日本でも迫害はあった。豊臣秀吉によるキリシタン弾圧の一つが「26人聖人殉教」。京都で捕縛された24人のキリシタンに加え、長崎に向かう途中で二人のキリシタンが加わって26人の人たちが、1597年2月に、長崎・西坂の丘で殉教したのである。中には若干12歳の少年もいて、ある役人が幼い少年を助けようと思い信仰を捨てるように迫ったが、少年はこの申し出を断固断わった。そして彼は、背丈に合わせて準備されていた自分の十字架のもとに走り寄り、十字架の上では縛られた体と指先を動かし、「パライソ(天国)、イエス、マリア」と言って喜びを表したという記録が残されている。13歳の聖アントニオも涙を流し出迎えた両親に、微笑みながら「泣かないで、僕は天国に行くのだから」と慰めた。そして隣の神父に「神父様、歌いましょう!」と讃美歌を歌う中、槍で刺されて殉教した。また三木パウロは死を目の前に、周囲を取り囲む群集の前で十字架に架けられたでままこう語った。「私は、太閤様をはじめ処刑に関わった全ての人を許します。私が切に願うのは彼とすべての日本人が一日も早くキリシタンになることです」と。

十字架を前に、なぜ彼らはこんなにも大胆でいられたのだろうか?彼らの身と心とをキリストの愛が取り囲んでいたからである。聖霊に満たされていたので、それら全ての中にあっても、圧倒的な勝利者になることができたのだ。

私たちの人生にも様々な困難が迫り、艱難や迫害が迫り、自分の力ではどうにも耐えられないと思うような状況に導かれることがある。だが聖霊がその苦難に対して圧倒的な勝利を治める力を与えて下さる。それゆえ私たちはどんな試みや迫害の中でも、そのようなものが神様の愛から私たちを引き離すことはできないと、勝利を宣言することができる。

「起死回生」という言葉がある。死にかけていた状態から復活するという意味である。だがキリストは、それ以上のことを成し遂げて下さったお方だ。

「死んでしまっていた者を生き返らせ、それだけに留まらない。何と神は、私たちに、「永遠の御国」を継がせて下さるのである。接ぎ木というのがある。

2個以上の植物体を、人為的に作った切断面で接着して、1つの個体とすることである。継がれる方の枝を穂木と言い、根っこの方を台木と呼ぶ

私たちは天国と言う台木にやがて繋いで戴けるのだ。私たちは穂木、キリストは台木である。

マタ25:34→ 王は、その右に入る者たちに言います。さあ、私の父に祝福された人たち。

世の初めから、あなた方の為に備えられた御国を継ぎなさい。

 

▼今、皆さんが受けておられる患難や苦しみは何か? それがたとえどのようなものであっても、キリストの愛からそれらのものが引き離すことはできない。皆さんは、皆さんを愛して下さった方によって、それら全ての中にあっても、圧倒的な勝利者になるのである。8:26→皆さんの中に聖霊が内住しておられるからだ。この聖霊が皆さんを助け、導いて下さるからだ。たとえどの道に行っても、どんな失敗や困難に直面しても、全てのことを働かせて益として下さる。そのことを堅く信じよう。ご聖霊が私たちに内住しておられるとき、この勝利の確信が生まれ、どんな悪魔の悪巧みがあり、どんな試みや患難があったとしても、私たちの救いは決して揺らぐことはない。最後まで守られるからだ。神様が選ばれた民は、どんな危険な場所に置かれても、どんなことがあろうとも、決して揺らぐことはない。神様が天の御国まで私たちを引いて行って下さる!

 

 

 

 

2020..26  最後の安息日の礼拝から  ―ルカ13:10~21―

 

.安息日礼拝の中で女に起きた奇跡の素晴らしさ!

イエスはある安息日、会堂で説教された。

その日は「安息日」で労働が禁じられていた。安息日礼拝ではラビたちがトーラー(モーセ五書)読み、短い講釈が入れる程度であったので、

イエスが説教をすることは、ユダヤ人の習慣を知る人たちは大いに興味を抱いたと思われる。

「メシアの到来と騒がれているあのイエスが説教するのか!規則破りをするに違いない!」そう思う人たちが大勢いたであろう。

集まって来た人々の中にひどく腰が曲がっている女がいた。彼女は目立たないよう、できるだけ人々の視線が集まらないような暗く目立たない“末席”に身を沈めた。…当時ユダヤでは、女性が会堂で礼拝を捧げることは許されていなかったからである。…女はおそらく、老女であったと思われる。

18年もの長きに渡って、苦痛に女性は耐えて来たのだ。ルカ13-10「腰が曲がって、全く伸ばすことができなかった」   起きて仕事をしている時も、

食事を作るときも、食べている時も、お風呂に入る時も、寝ている時も、常にいつも激しく腰が曲がっている。想像できるだろうか?

▼さてイエスはこの女をご覧になった…。彼女をイエスの傍に招かれたのである。なぜ?この女が「癒して下さい」と願い出たからか?

あるいはこの人の友達が彼女をイエスの前に連れて来て、「主よ、私の友人がずっと苦しみ続けているのです。是非彼女を癒して上げて下さい!」と願ったからか?そうではない!イエスが一方的に、この女を呼び寄せて下さったのである。イエスは言われた。「女の方、あなたは病から解放されました。」

一つ前の訳では「女の方、あなたの病気は癒されましたとあるが、新改訂訳では、あなたは病から解放されました。」と訳されている。新改訂訳が正しい。なぜなら、ただ彼女は単に癒されたのではないからだ。

13:12~13は、不思議な文章であることが分かる。女の腰がまっすぐになるより先に、悪霊からの解放が完了していることを主が宣言されているからである。救いの宣言が先で、癒しはその後に付随的に起こっている。癒しより先に魂の救いが優先することを示しているのだ。

もう一つの不思議な点は、この会堂で行われた奇蹟の記事はこの女性にだけ行われたものだったという点である。なぜか?その理由を解くカギは次のイエスのことばにある。16→「この人はアブラハムの娘です。」イエスはこの時、この女をアブラハムの子と認定されたのである。

「アブラハム」とは「信仰の父」である。そのことは、イエスがこの群衆の中で彼女だけを真の信仰者であると認定されたということなのだ。

救い主イエスを一目見たい、神の御子イエスの声を聞きたい。そのためになら性差別によって禁止されていた安息日礼拝にも潜り込む…。

それ程の彼女の純粋な勇気に満ちた信仰がイエスに見出され、彼女に解放と癒しを生み出したのである。

出エジプト23-12に、安息日の意味について、「…六日のあいだ、自分の仕事をし、七日目にはそれをやめなければならない。

あなたの牛や、ろばが休み、またあなたの女奴隷の子や寄留者が息をつくためである。」とある。安息日は真の安らぎを得る為の日である。

彼女はこの日、主イエスによってそれを得ることが出来たのだった。

聖書において、「癒し」(13:14)という会堂管理者の言葉は「セラペウオー」という言葉が使われ、一般的な治療行為を指す言葉であった。

一方イエス様は「アポルオー」という言葉を使っておられる。「アポルオー」とは「解放」を意味する言葉である。

会堂管理者にとってはイエスの行為は「癒し」であったが、イエス様にとっては「解放する」ことであったのである。

「癒し」は束の間である。だが罪からの「解放」は継続するものである。主は礼拝中、彼女からサタンを、悪霊を追い出して下さった。

礼拝とは「神が私たちの体や心を、そして魂を開放して下さる時」であるということが分かる。

もう一つ、13-1213→「イエスは手を置かれると…」とある。イエスがされたのはそれだけであった。すると「彼女はただちに腰が伸びた」のである! 腰がずっと痛かった人が整体師の所に行ってパッと癒されたらびっくりしないだろうか?「ああ、すごい!」この女の場合、この結果を受けて「大いに神をあがめた」のだった。この「神をあがめた」という動詞は「未完了形」であるので継続を表している。

女は何度も何度も神を崇めて帰って行った。素晴らしい話だ。ところがこれを良い話だと思わない人がいた。会堂管理者である。

 

.周囲には判らない人たちもいることを承前もって知っておく必要がある!

14節→すると会堂司(管理者)はイエスが安息日に癒しを行ったことに憤って、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。だから、その間に来て治してもらいなさい。安息日にはいけない。」

会堂司(管理者)は法律の専門家ではなかったが、律法学者の話をしょっちゅう聞いていたので、律法の知識は豊富だった。

彼は会堂での集会が正しく行われるようにマネージする人だった。だから彼はここで、まるで律法学者が言うようなことを言っているのである。

彼は憤っているが、その理由は、イエスの行為は、自分が理解している律法からは逸脱しているというので怒っているのである。

15~16→ しかし主は彼に答えられた。「偽善者たち。あなたがたはそれぞれ安息日に自分の牛やろばを飼い葉おけからほどき、連れて行って水を飲ませるではありませんか。この人はアブラハムの娘です。それを18年もの間、サタンが縛っていたのです。安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか」

この箇所を今用に言い換えて読むなら、例えばペットを飼っている人が、「安息日」だと言うので、その日は水も食料も上げないだろうか?

子供が熱を出して苦しんでいるのに、薬を飲ませて看病することは労働なのか?そう言っているのだ。

あなた方は安息日だからと言うので、井戸に落ちた家畜をほっておくだろうか?

17→「イエスがこう話されると、反対していた者たちは皆恥じ入り、群衆はみな、イエスがなさった全ての輝かしいみわざを喜んだ」。

安息日に礼拝を捧げることで人は癒され、励ましを受け、力を与えられなければ意味がないのである。

だが律法学者やパリサイ人たちにとって安息日は単に規律を重んじる形式的に守るべき日でしかなかった。

彼らにとって「安息日」は休むべき日、労働を禁じられている日であった。

 

.からし種とパン種の譬えの意味を通して信仰の道を進みなさい!

▼さてイエス様はこの奇蹟を行われた後、間髪を置かずに「二つの例え話」を語られている。

13:18~19→そこで、イエスはこう言われた。「神の国は何に似ているでしょうか。何にたとえたら良いでしょうか。それは「からし種」に似ています。ある人がそれを取って、自分の庭に撒くと、成長して木になり、空の鳥が来て枝に巣を作りました。」

…この「からし種の例え」と、「パン種の例え」は、すでにイエスによって一度使われている例え話であるが、敢えてここで、この文脈の中で語られている所に意味がある。なぜならこれは「奥義」であったからだ。

ユダヤのラビの話では真理を説明する場合、ギリシャ、ローマの哲学者たちと違い、例話が用いられることが多かった。ヘブル的に「目に見えるイメージ」は「目に見えない真理」を説明する為に用いられた。それが「からし種の例え話」と「パン種の例え話」であった。「からし種」は、非常に「小さな種」である。だがそれが蒔かれると、一年も経たないうちに「大きな木」に成長する。厳密には木ではないが、短期間のうちに木のように大きくなる植物なのだ。

「始まりは小さい。だが終りは大きくなる」という例えとして主はこの例えを使われた。では何の始まりか?「神の国」の…と主は言われた。

ここで主が言われた「神の国」は、やがて来る「教会時代」を指していた。教会時代は使徒の働き2章のペンテコステの日に始まった。

私たちは今この教会時代を歩んでいるのだ。これを神学用語で「奥義」と呼ぶ。本来奥義とは旧約聖書に預言が無いにも拘わらず、

必ず後に起きることを言う「神学用語」である。だから教会は“奥義としての王国”なのである。

さて教会という存在は、携挙の時までの“つなぎ”である。だからこの奥義は、教会が誕生してから携挙されるまでの間の地上におけるキリスト教会を指しており、イエスはこのタイミングで取り上げておられるのである。「からし種」は短期間で大きな木へと成長する。ただしそこには、空の鳥が巣を作るようになる。これは猛禽類を指している。死体を食べる汚れた鳥たちである。キリスト教のなりをした異端や異教が今後教会時代、周辺に沢山出現してくることを意味しているのである。したがって教会時代の到来は危険も併せ持っていることを忘れてはならないことを主はここで奥義として語られているのだ。

20~21→再びイエスは言われた。「神の国を何に例えたら良いでしょうか。それはパン種に似ています。

女の人がそれを取って三サトン(ローマカトリック/ギリシャ正教会/プロテスタント)の粉に混ぜると、全体が膨らみました。」

「パン種」も「からし種」と似たものである。初めは非常に小さい。だが後には世界的に大きな影響をもたらすということを教えておられるのだ。そして「パン種」とは、やがてキリスト教会の中に生じる「間違った教理」を指している。「空の鳥」は異端を表し、「パン種」とは誤った教義を指している。

イエス様はそのように教会の将来を予言されているのである。

 ▼腰の曲がった女の癒しの話がこのタイミングで登場しているのには意味がある。この時イエス様は、会堂で説教をされていた。4:15節以来、イエス様がユダヤの会堂で説教されるのはこの時が最後であった。ということは、この癒しとそれに続く話は会堂内では結論的な話であるということになる。

当時の指導者たちはイエスのメシヤ性を拒否した。だからイエスは民族全体の救いではなく個人の救いに焦点を合わせ、この女を救われ癒された。

イエス「この人はアブラハムの娘です。」「この人はユダヤ人クリスチャンである!」と明言されたのである。

イエスはこの女がイエスを信じるという信仰を前提に、この女を癒されたのである。だからこの癒しには、このような象徴的意味があった。

▼この女は腰が曲がっていたが、16→彼女は、サタンに束縛されていたことが分かる。だからイエス様は「解放された(解かれた)」と言われたのである。ユダヤ人たちは民族的に悪魔の束縛下にあり、また口伝律法の束縛下にあった。「ユダヤ人」というのは「ユダ部族」から来ている名称である。

「ユダ」とは「神を称える」という意味である。だから本来はユダヤ人という名前を持つ人たちがイエスを受け入れて神を褒め讃えなければいけないのに、ユダヤ民族はそれをしなかったのだ。

ここでイエス様は私たちにこうおっしゃりたいに違いない!

「周りの人(ユダヤ民族/大勢の未信者)のことはひとまず置き、あなたはしっかり神(イエス)を信じて救われなさい。周りにはカトリックがあり、正教会があり、プロテスタントがある。だが人はそのようなレッテルで人は救われる訳ではない。だから私たちはレッテルを見て十把ひとからげで批判したり、裁いたりしてはならない! ただしキリスト教の教義の一部を利用して神の御名を汚す異端集団、例えばエホバの証人、モルモン教、統一教会といった「異端御三家」については別である。あれは完全な異端であって間違いであるから相手にしてはならない。

イエスは今日も一人ひとりを今も招いておられる。これがユダヤの会堂で語られた主のメッセージのテーマであった。

 これをもってイエス様のユダヤ会堂での説教はすべて終了した。ここからイエス様はさらに苦難への道、エルサレムに向かって歩み始められるのである。

 

 

 

 

 

  2020..15.(水)  箴言15章 第12講 (水曜祈祷会)

 

Ⅰ.神の存在を認めて生きよ!

 本章では知恵ある者の生き方として神との正しい関係性を持って生きることが語られている。人間は懸命に“物事の法則”について見出そうと努力する。

しかし大事なことは、この世界の“種々の法則”についての謎解きよりも、その法則を成り立たせている、神であるお方、創造主である “神ご自身の存在”に注目することこそが大切であって、それを認めない生き方は“愚かな者”の生き方、と聖書は言う。 箴言15:2

   箴言15:3→創造主である神の目は、万物、万人、全宇宙に注がれていて、誰一人、何一つとして、神の目から逃れおおせることはできない。

主はあらゆることをご存知であられる。主は全知であって、主が私たち人間とは質的に違うお方である。そのような生き方をする時、

人は 箴言15-4→「穏やか(癒される)」に生きることができる。これは信仰者がえておくべき“基本的大前提”である。 詩139:1~18

  つまり神は人の究めたがる表面的部分ではなく、実在の“内実”を見ようとする者を受け入れて下さるのである。 

     悪者のいけにえは主に忌み嫌われ、心の直ぐな人の祈りは主に受け入れられる。

 主は悪しき者の道を忌み嫌い、義を追い求める者を愛される。 箴言15-8~9節     

  ここには、箴言15-11→ 神は、よみと滅びの淵をさえ見通すお方であると記されているのだから、人の心の底など神には手に取るように分かっておられる。

  主はすべてのものを見通しておられる方なのだ(箴言15-315-21

   よみも神の前では裸であり、滅びの渕もおおわれることはない。 ヨブ26-6 

   たとえ、私が天に上っても そこにあなたはおられ 私がよみに床を設けても そこにあなたはおられます。詩139-8

  神は、悪人(神を信じようと、あるいは求めようとしない人々)に関心を持たれない。神は彼らを相手にはされない。

 主は悪しき者から遠くにおられ、、、(29節)   彼らはやがて燃える炉の中に投げ込まれるだけだ。神は、高ぶるものを根こそぎ(破滅させ)にし(25節)、 

  善人や貧しい(謙虚な)者、そして神を恐れる者をご自身に近づけ、祝福して下さる(24、29節)のである。

  だから宇宙、地球、人間の全ての営みは、神の守護と支配の中にあることを知ることこそがなすべき第一のことである。

 

  人間は思慮深く生きているつもりであっても、神の助けを知らず、また認めずして、知恵深く正しい生き方をすることは不可能である。

神は“飾り物”ではない。神は今も生きて、働いておられる。人間にとって、神を認め、信じ、心に受け入れて生きることこそが“知恵の入り口”、

知恵の道全体”なのだ。この神と“よき時”を共に過ごすことこそが、結果的に、私たちの生活に最善の祝福をもたらすのである。

 

▼アド・アストラという映画を観た。宇宙飛行士に憧れてあらゆる学問を積み、エリートとなり、宇宙飛行士となった勇敢な男が主人公である。

彼は常に冷静な判断力、決断力を持った勇敢な宇宙飛行士となる。そんな彼は知的生命体を探す為に先発隊の創作という使命を帯びて、

海王星付近の宇宙ステーションへと向かう。旅の途中でクルーは皆死に、一人ぼっちとなりながら様々な経験をクリアして、

目標地点の宇宙ステーションに到達する。散々な目に遭ってこの地点まで到達したが、そこで彼はつくづくと知らされる。

こんな使命も、これまで学んできた知識も学問も技術も勇気も、結局、“愛”に比べればまことに小さなものだということを知らされるのだった。

   ・・・いつまでも残るのは、信仰と、希望と愛、これら三つです。Iコリント13-13

  “神の知恵”こそ愛である。信仰は愛である。これこそ人が知るべき最も大切なことである。これが人類が知るべきミッションである。

  それを自分の身に着ければ、恐ろしいものはない。宇宙は、世界は、「神を恐れる」ことに全て帰結する。真に心から神の前に謙虚に生きたいものである。

  主を恐れることは知恵の」訓戒。 謙遜は栄誉に先立つ。 箴言15-33

 

 Ⅱ.心の内側に注意せよ!

  神を恐れる信仰は人の心の中のことではあるが、それは人の内側のみならず、外に滲み出す。舌や唇、行動にも関係してくることになる。    

  柔らかな答えは憤りを鎮め、激しい言葉は怒りをあおる。 箴言15-1.2

  「穏やかな(癒す)」言葉は人を励まし、皮肉交じりのことばは人を腐らせる。

  穏やかな舌はいのちの木。舌のねじれは霊の破れ。 箴言15-4 

  ・・舌も小さな器官ですが、大きなことを言って自慢します。見なさい。あのように小さな火が、

  あのように大きな森を燃やします。~ 舌を制することができる人は、だれもいません。

  舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています。 ヤコブ3:5~8

  悟りのある人はみことばによって賢くなろうと努力するが、愚か者はそうではない。そのように心掛けて生きれば、毎日は宴会のようになる(15節)

    ただ主を恐れて主の交わりの中で生きることだ。そうすれば貧しくても問題ない。

   乾いたパンが一切れあって平穏なのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。 箴言17-1

  

 今日、人々の価値基準が「お金」だけになってしまった。ハーヴィ・コックスは、「今日では“市場”が全知全能の神の偏在する場となってしまった」と言った。

市場原理主義=金儲けこそ善であるとの新しい宗教が世界を席巻している。かつてのレーガノミクスやサッチャーリズムもそうだったし、トランプ財政最優先政策やアベノミクスも焼き直しである。中国も日本もそうだ。その結果、市場競争が無制限に肯定され、貧富格差が拡大してしまった。これは“マモン教”であり、遅かれ早かれ崩壊するであろう。悪は永続しないのである。

  イエスは、周囲を見回して、弟子たちに言われた。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。」弟子たちは、イエスの言葉に驚いた。 

   しかし、イエスは重ねて彼らに言われた。

  「子たちよ。神の国に入ことは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」 マルコ10:23~25

 人の世にあるものを羨み、妬み、自分も手にしたいとあくせくして生きることは精神衛生上良くない。

  わずかな物を持って主を恐れることは、豊かな財宝を持って混乱するよりも良い。箴言15-16

 人より良い暮らしをしようなどとは考えなくてよい。粗食で、味付けもせず、素材を味わいながら愛する者たちと楽しく食事をする方が、

よくわからないテーブルマナーを気にし、互いの腹を探りながら高級料理を食べるより楽なことはわかりきったことだ。悟りを得ることだ(30節)

     神のみことばの真理によって解放された人生を生きることである。

 

 

   2020.6.21 寛容さを身にまとう秘訣  ガラテヤ5:22~26

 

怒りを遅くする者(耐え忍ぶ者)は勇士に勝り、自分の霊(心)を治める者(支配する人【現】)は町(城)を攻め取る者にまさる  箴言16:32

  米国の哲学者・教育者、ジョン・デューイ(19~20世紀)は、「この世で最も役に立つ美徳は『忍耐(寛容心)』である」と言っている。デューイは一例を挙げて、「かの大作曲家、ヨハネス・ブラームスは多いに寛容な人であった。というのも忙しい彼でさえ、仕事中に多くの邪魔が入ったが為に、「子守歌」を書き上げるのに7年もかかったのである。」と述べている。

 

過去何度か辛い時期にあった時、私は「主よ、私に忍耐する力(寛容な心)をお与え下さい」と祈った。祈れば、問題が軽くなると思っていたからである。…だが思いに反して、事態は悪化して行く一方だった。そこで私は更に祈った。「…神様、私にどうか「忍耐力」(寛容な心)をお与え下さい!」…。しかしそれでも、問題が収まることはなかった。それどころか本格的に状況は悪化の一途を辿って行った。 私はずっと後になって気付いた。「…あの時、確かに神様は私の祈りに答えて下さっていたのだ」…と。理由は、神様は、私に「本物の忍耐力と寛容さ」を与えようとしておられたのだということが分かったからだ…。

  神は、私たちに“本物の寛容さ、忍耐力”を身に着けさせようと考えておられる。だからその為に、しばしば私たちは忍耐力を試しておられるのだ。

  ところであなたはどれぐらい忍耐深い、寛容な者であるか? 今朝、自分がいったいどれくらい忍耐深い者であるかを知る方法を聖書から考えたい。

 

I. しばしば「妨害」という方法を通して、私たちは、忍耐力(寛容度)をまとう! 

 

夕食の席に着きくつろいでいる中に電話が入る。お風呂に入ったとたんに来客がある。大切な仕事をしているときに限って来訪者がある。…えてして、何かやろうとする段に、邪魔が入るものである。そしてその度に後で、家族の者に腹を立てて見せたり、小言を並べるのである。

  ある時、主の弟子たちがこう言った。「子どもたちをイエス様のところに連れてきてはいけない。お忙しいのだ…」弟子たちは、主イエスのスケジュールに割り込んで来た人々に腹を立てたのである。それに対して主は何と答えられたか。「子供たちを来させなさい。わたしのところへ来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」(マタイ19:13~14)

  あなたは様々な“割り込み”、“妨害”に対してどう対処しておられるだろうか?それがあなたの「忍耐力・寛容度」を試す為の一つ目のテストとなる。割り込み、妨害に屈服せず、愚痴をこぼさず、ふてくされず、信仰者らしく歩む人、クリスチャンの「忍耐と寛容さ」を神は誉めて下さる。そしてあなたのその寛容さに免じて、主はあなたのライフを祝福して下さるのである。

 

II.「待つこと」を通して、忍耐力・寛容度をまとうことができる! 

 

あなたは日常の「不便さ」にどう対処して生きておられるだろうか?今は「レトルト食品世代」である。…電子レンジ一つで、簡単に美味しいものがすぐに手に入る。このような生活に慣れ親しんでいるせいか、何でも早くして貰えないと気が済まない。世の中は便利で当たり前、「不便」であっては困るのだ。

  ▼なので私たちは“待つこと”が苦手である。情報についても、最新のものが、しかも最速で入って来る。近く県知事選が行われるが、最近の選挙は投票前から「出口調査」なるものにより当落結果が入って来る。「なんでまだ開票始まったばかりなのに、どうして当選確実って分かるの?」の世界である。世界中のニュースがリアルタイムで飛び込んでくる。…とにかく早い。今や私たちクリスチャンも必然的に「せっかちクリスチャン」「忍耐力の乏しい」クリスチャンが多くなっているのである。 だから、「静かに待て わがたまよ、かたもつ神は ませり…」という賛美歌の意図するところも解らず、ピンと来ない人も多いのだろう。

  ▼私たちは「待つ」ことよりも「動く」方が好きである。病院の待合室で順番を待つ。スーパーのレジの長蛇の列に並ぶ。狭いベッドで何もしないで安静にする…。あなたはご存知だろうか?一生のうち、信号が青に変わるのを待っている時間が計六か月に及ぶという事を…、また、青信号に変わってから二秒以内に発車しないと、後ろの車の運転手が怒り出すという事実を?…あなたは「待つ状態」にどう対処できるか。

  ▼「せっかち病」と呼ばれる新しいジャンルの病気を発見したアメリカのローゼンマン博士とフリードマン博士によれば、心臓麻痺患者の90%が、この「せっかち病気質」を持っていると言う。彼らの病気の原因は、彼ら自身の習慣化されたその“短気さ”にあるというのである。

  ▼旧約聖書に、ヨブという人が出て来る。ヨブはひたすら待つことしかできなかった人である。彼は神の癒しをただひたすら待った

   「…私は苦役の日の限り、待ちます。私の代わりがやって来るまで。」(ヨブ14:14)

  「急ぎ足の者(せっかちな者)は罪に陥る(トラブルに巻き込まれる)」(箴言19:2)

 ノアは雨が降るまで120年も待たなければならなかった。それは気の遠くなるような期間であった。

 アブラハムは息子を与えられるまで100年待った。これまた気の遠くなるような期間であった。 

 モーセは荒野で40年待った後、イスラエルの民を率いて約束の地に人るまでに、さらに40年間を費やした。計80年である。

 旧約時代の心ある人々は、メシアの訪れの時を待っていた。新約聖書の時代に入っても、弟子たちは、聖霊の訪れを日々待って過ごし続けていた。…聖書はこのように「待つこと」について実に多くの人々を紹介している。それはなぜか?

待つことは信仰の表明だからだ。待つことで最も辛いのは神が急いでおられないと感じる時である。だがそこで養われるのが「寛容な心・忍耐する心」である。

 

ラザロは主の良き友人だったが、ある時とても重い病気にかかった。ラザロの姉妹であるマリヤとマルタはイエスのもとに使いを送り、「あなたが愛しておられる者が病気です」(ヨハネ11:3)と伝えた。聖書には、イエスがこの伝言を聞かれたにもかわらず、ベタニヤへ行かれるまで故意に二日間待たれたことが書かれている。イエスが到着されたとき、すでにラザロは亡くなっていて彼の体は墓に葬られていた。主の到着は遅すぎたと彼女たちは思った。そして泣いた。怒った。…「イエスの行動が遅きに失した」…と。だがイエスご自身はゆっくりとではあったが動いておられた。どうしてそう言えるのか?神に「手遅れ」という言葉は無いからだ。 墓の前に立たれた主は、「ラザロよ。出て来なさい」(ヨハネ11:43)と呼びかけた。とたんにラザロは生き返って、墓から出てきた。イエスは遅れてなどいなかった。 姉妹たちは、ここで「待つ信仰」を学んだのである。 神のタイミングに早い、遅いはない。「神のなさることはいつも時にかなって美しい」のである。神はいつも人より正しく完全である。神は私たちが信頼して待つことを望んでおられる。

  詩篇の作者が、37:7→「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て」と言っているのはそれを教える為なのだ。ペテロは、「私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい」(Ⅱペテロ3:15)と教えている。

 

III. 私たちは、「イラ立ち」を通して寛容さを磨くことができる!

 

 民数20:10~11には、モーセがイスラエル人に対してイラ立った時の様子が描かれている。イスラエル人の不平や批判に長年耐え続けてきたモーセだったが、この時、彼は我慢の限界に達していた。神が、「岩に向かって水を出すよう命じなさい」と命じられ時、彼は短気を起こして腹立ち紛れに激しく岩を叩いたのである。その結果は誰もが知っている通り、モーセは約束の地に入ることは許されなかった。怒りに早いことを神には喜ばれない。クリスチャンである私たちは、イラ立ちに勝利して、寛容をまとう者でありたい

  私たちは、“真珠の話”が教えてくれる教訓話が好きである。真珠貝は誤って体に入り込んだ“砂粒”の刺激を受けることで美しい真珠を産み出す。“イラ立ち”、それは嫌な“刺激”である。だがそれを前向きに受け止めることを学ぶことができれば、それをも真珠に変えることができるのだ。

 

 ルカ10:40には、寛容になることができずにいた一人の女性が描かれている。主がマリヤとマルタの家におられた時のこと…。姉のマルタは慌ただしくイエスと弟子たちの接待に追われていた。しかし、この時マルタは妹に腹を立てていた。マリヤは接待の手伝いをしないで、イエスの話を座って聞いていたからである。イラ立っていた姉は、ついに頭にきてイエスに不満を述べて言った。「主よ、妹が、私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃって下さい」。…私たちはどうか?忙しさの中で、あなたも心当たりがあるのではないだろうか?

 

   実践の提案Ⅰ.新しい考え方を身につけること」!

   自分を悩ます状況や人々に対して、新しい見方をすることを覚えるという提案である。寛容は物の見方を変えることに始まる。私たちは不寛容な時には限られた物の見方しかしていないのだ。つまり“自分のことしか考えていない”のだ。自分の必要、自分の願い、自分の目標、自分の要求、自分の予定…。“不寛容な心”の根にあるのは、“自己中心的な思い”である。だから問題を新しい視点で見直し、相手の立場に立って考えることを学ぶのだ。そうすれば、なぜ彼らがそのように感じているのかが分かるようになる。

   箴言19:11→「人に賢明さがあれば(神からの思慮があれば)、怒りを遅くする。その人の栄誉は、そむきを見過ごす(赦す)ことである」

 

  「賢明さ」とは、人生を神の視点から見ることだ。神の視点とは「自分はただの人間に過ぎず、自分は神ではない」ことを知ることである。私は完壁ではない、だから何かをコントロールする立場にはない。事実、人生で直面するほとんどの事柄を、私はコントロールすることができない存在なのだ。私はただの人間に過ぎない。この視点である。完璧な人など一人もいない。だから誰かが失敗したり、私を落ち込ませるようなことがあっても、驚いたり過度に腹を立てるべきではない。もう一つは、「神がすべてをコントロールしておられる」ということだ。神は私の人生の状況、イラ立ち、問題を全て用いて私に対するご自分の目的を果たそうとしておられる。     箴言20:24→「人の歩みは主によって定められる」

 

  実践の提案Ⅱ.「ユーモアのセンスを養う」こと

   自分の置かれた状況を笑うことを学び、また自分自身を笑うことを学ぶのである。フラストレーションの中にあっても、笑いの要素を何とか見つけ出してみるように心掛けよう。          箴言14:30→「穏やかな心は(心がリラックスしている)からだのいのち(長生きする)」

 よく笑う人は長生きをするという調査報告がある。ユーモアには緊張を緩め、不安に対して解毒剤の役割を果たす力がある。わずらわしい副作用がまったくない精神安定剤なのだ。笑いは生活の衝撃吸収材なのである。

          天の御座に着いておられる方は笑う (詩篇2:4)

          喜んでいる心は健康を良くし、打ちひしがれた例は骨を枯らす (箴言17:22)

 

実践の提案Ⅲ.「愛を深める」こと!

   Ⅰコリント13:4「愛は寛容である」。この聖句の意味がお分かりか。寛容になれなければ愛せない、という意味だ。 誰かを愛するとは相手の必要、要求、心の傷、考え方を考慮に入れるということだ。

         エペソ4:2→「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い(なさい)」

 

実践の提案Ⅳ.「神により頼む」こと!

寛容は人間の意志の力だけで養えるものではない。これは聖霊の実である。誰も自分を奮い立たせて、「死ぬ気で寛容になってみせる」と言うことはできない。寛容は意志の力によってもたらされるのではないからだ。

 もし神は寛容なお方だと感じているなら、そしてそれが本物の聖霊の実であるなら、私たちは本物の内なる平安を持つことができるようになる。それは、主により頼んでいるからだ。寛容は信仰の一つの表明ある。それは、「私は神に信頼する。神はこの問題よりも偉大なお方である。神はこのイライラさせる状況の上に御手を置き、このことを用いて私の人生を良いものに変えて下さる」と宣言することなのだ。

 

信仰から来る寛容さによって、私たちは神の視点から自分の人生を見ることができるようになる。信仰によって、私たちは「なぜこんな事が起こったのだろう」と言う代わりに、「神様、この状況からどんなことを教えようとしておられるのですか」と言うことができる。信仰によって、「大切な約束があるときに、どうしてパンクなんか起こしたんだ!」と言う代わりに、「この状況から私に何を学ばせようとしておられるのですか。」と言うことができるようになるのである。

 

                                                    

 

 

2020.5.24 サウル、ヨナタン、ダビデと私たち サムエル9章~31章

 イスラエルの初代王サウルと彼の息子ヨナタン、その部下であったダビデから学びたいと思います。

 

Ⅰ.サウルと私たち

 ――自尊心が強すぎたサウル――

  サウルは、イスラエルの初代の王となるにふさわしい十分な資質を持った人でした。その飛び抜けた存在感、勇猛ぶり、戦いの作戦・指揮能力144748、さらに政治力…、どれをとって見ても彼は優れた人でした1024。また彼は、謙虚で、寛大な人で921 / 156、“王者”の “風格”を感じさせる人でした102223 / 1113

 かくして有能な王を持ったことをイスラエルの民は大いに喜びました。ただ彼には足りないものもありました。それは“霊的資質でした。

9:618(神の人、預言者サムエルをまるで知らなかったこと、15:9みことばに不従順従な点などにそれが表れている…)にありました。

 ――サウルが行き着いた先は…――

  いつの時代も人々ははやりの「かっこよさ」を求めるものです。しかし聖書は言います。「人はうわべ(顔)を見るが、神はその心を見る」と。「うわべ」とは「表面」「面目」です。「プライド」ばかりを重んじる人を神は望まれないのです。サウルは神の前にひれ伏すことより、人々の前に“かっこ良く”見られたいと思いました。これが後にサウルに重大な致命傷を与えることになるのです。なぜならそのような思いは、心に嫉妬心、競争心、劣等感や挫折感を、また時には殺意さえも生み出すことがあるからです。 そんな思いは部下のダビデに対して芽生えます。その時からサウロの転落が始まったのです。結果、彼は王の地位を明け渡し、ついには宿敵ペリシテとの激戦の中、「敵に打たれるくらいなら自害を!」として、三人の息子たちと共に“ギルボアの露”と消えてしまいます31112

 自分の才能、学歴、経歴などに、或いは仕事にプライドを持つ、自信を持つことも大切です。しかしそれも“神に在ってこそ”という大前提を忘れてはならないのです。サウルだけではありません。

 私たちも“かっこ良さ、人の評価”ではなく、“神の前”にどうであるか?この問いかけは重要です。

 

 ――なぜこうなってしまったのか?――

  周囲はダビデをほめそやしました。「サウルは千人を討ち取り、ダビデは万人を討ち取った」と。

 サウルは大衆のその声を聞きました。ダビデは勇者としてイスラエルに多大な貢献をしたのですが、人々が彼を称え始めると、サウルは不機嫌になったのです。その上ダビデは文学的センス、音楽的センスにたけていました。彼は詩人であり琴の名手でもありました。彼は幾度も“サウル王宮”へ呼び出され、王が悪霊に悩まされる度に、“竪琴”を弾いては、騒ぐ“サウルの心”を穏やかにしたのです(16:23)。しかしサウルは次第にダビデに強い殺意を抱き、ダビデに槍を二回も投げつけて、刺し殺そうとしたのです。ダビデは、王のふるまいは、「“悪霊”のわざである」とは思いながらも、次第にサウルを怯えるようになり、距離を持つようになっていきます。

 クリスチャンである私たちも気を付けなければなりません。“霊的資質”を高める必要があるのです。気を抜くとは心に隙間を作ることです。“心に隙間”が生まれると、そこに悪霊がサッと入って来て居座ってしまうのです。まさに“油断大敵”です。やがて私たちは悪霊の力で傲慢になり、恨み深くなり、疑い、妬みなどが心に生まれ、誤解したり、早とちりしたり、余計な思い煩いに囚われてしまうことになるのです。

 

 ――霊的武装を心掛ける!――

  では、どうしたら良いでしょうか? 悪魔に機会を与えないように心掛けることです。いつも賛美と祈りで心が満たされるよう努めるのです。ご聖霊に心を感謝と賛美でいっぱいにして戴くのです。そのように願い祈りましょう。ルカ11章の24節でイエス様が語っておられるように、心を“空室”にしないようにするのです。ダビデの場合、竪琴を弾き、賛美し、みことばを唱え、主を褒めたたえて、心の中の“空室”を神様への思いで満たされました。私たちも疑いや恐れ、妬みが心に湧き始めたら、すぐに御言葉にすがり、唱えたり、祈ったり、主を賛美するように心掛けるのです。こうして心の“霊的武装”を図るのです。

 「主に感謝せよ。その恵みのゆえに。人子らへの奇しいみわざのゆえに。まことに主は、渇いた魂を満ち足らせ、飢えた魂を良いもので満たされた。」詩篇10789

 また、進んで礼拝や諸集会を心掛けましょう。集会出席はあなたの“霊的免疫力”を高めてくれるのです。

 今もなおコロナウイルス感染症が流行っていますが、コロナウイルス以上に質(たち)の悪い“悪霊が放つウイルス”からあなたの心身が、この霊的免疫力で守られるのです。だから集会出席は大切なのです。ですから私は、集会自粛中も動画礼拝やCD礼拝を必ず捧げて下さいと何度もラインやメールを通してしつこい程に今回お願いしたのです。

 

Ⅱ.ヨナタンと私たち

  ヨナタンは王子でしたが若い頃からダビデの親友で、彼を尊敬し、深く愛した人でした。ヨナタンは友愛の人でした(18:3)。また彼は、徹底的に与える人でした。18:4→「着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた」

  ヨナタンは将来自分が着くべき“王座”をさえもダビデに譲ろうと考えていたのです2317。彼は人々からの人望も非常に厚い人でした1445。またヨナタンのダビデへの愛は行動的な愛でもありました。彼は逃亡中のダビデのことを思いやり、では荒野に逃げていたダビデを訪ねて力づけて上げています。

 「…恐れることはありません。…あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。…」Iサムエル231618

 

 ――ヨナタンは、キリストのひな型!――

  ヨナタンは、父サウル王と部下ダビデの間に入って、二人の仲を執り成した人でもありました。

  「サウルはヨナタンに怒りを燃やして(激怒して)言った。『この弱悪な気まぐれ女の息子め。お前がエッサイの子に肩入れし、自分を辱め、母親の恥をさらしているのを、この私が知らないとでも思っているのか。エッサイの子(ダビデ)がこの地上に生きている限り、お前もお前の王権も確立されないのだ。今、人を遣わしてあれを私のところに連れて来い。あれは死に値する。』ヨナタンは、父サウルに答えて言った(言い返した)。『なぜ、彼は殺されなければならないのですか。何をしたと言うのですか。』すると、サウルは槍をヨナタン投げつけて撃ち殺そうとした。それでヨナタンは、父ダビデを殺そうと決心しているのを知った。…」 Iサムエル203034

 この後も、王に従順なヨナタンはペリシテとの戦いで最後まで父サウルを支え、挙句父と一緒に戦死してしまいます。

 私は思います。ヨナタンほど敵対する両者の間に立って自分自身板が挟みに遭いながら、苦悩しながらも、最善を図り、最後には“王子”としての運命に従って父と最後まで行動を共にして死んでいった人は、聖書の中でどこを探してもいないのではないかと。これ程まで、信仰の友の為に“命がけ”で愛し続けた人物は、お一人しかいません。主キリスト・イエスです。ヨナタンは、キリストの“ひな型”であった人と言えるでしょう。

 いくら執り成してもヨナタンには何の利益もありませんでした。彼はこの時すでに彼は王子でしたし、地位、待遇、立場…何をとっても文句はなかったはずです。むしろこのことで、彼は、王から激しい“憎しみと怒り”を買い、命まで狙われる身の上となってしまったのです。それでも彼は、ダビデを影に日に“援護”し続けたのです。では何ゆえに? それは“ダビデとの友情”のゆえにでした。イエス・キリストも同じです。

 「…私はあなた方を友と呼んだ」(ヨハ151415

 

Ⅲ.ダビデと私たち

  ヨナタンはダビデと約束した通り、父の真意をダビデに知らせなければなりませんでした。そこでヨナタンは従者を連れて野に出て行き、エゼルの石の近くで弓の練習に見せかけて“三本の矢”を放ったのです201824。もしこの“矢”が、従者の手前に落ちて、「手前に(こちら側)落ちたから持って来い。」と言えば、安全ですが、「矢はお前のもっと向こう側だ。」と言えば、父王が命を狙っているから逃げなければならないと、あらかじめ決めていました。そしてヨナタンは矢を放った後、若い従者にこう叫びました。「矢はお前より、もっと向こうではないか。…早く。急げ。立ち止まってはいけない。」(203738。ヨナタンとダビデだけが知る“暗号の言葉”でした。

 ダビデはこの決断により沢山の物を残して行く必要が出て来ました。できることならもう一度サウル王と和解して、王の娘婿としての地位を存続したい、そんな思いもあったかも知れません。今まで得た地位も名声も財産も家族も全てを捨てて、あてどのない荒野への旅、逃亡生活に入らねばならなかったのです。サウルがいる限りイスラエルにはもう戻れません。また隣国に逃げたとしても、周りは敵ばかり…。ダビデは有名人で、彼を知らない敵はいませんでした。見つかれば捕えられて即刻首をはねられてしまうでしょう。四面楚歌のダビデでしたが、彼は逃亡を決意するのです。その決断に導いてくれたのが、親友、ヨナタンの言葉でした。 「…早く。急げ。立ち止まるな、後ろを振り向くな、もっと先に行け!」(2038

 創世1917でロトの妻が逃げる途中、後ろを振り向いて、残し置いてきた“財産や楽しみ”に心奪われた結果、命まで失ってしまったことがありました。 

 「山に逃げよ!」と言われても、山の上に何があるというのか?何もありません。むしろそこには、恐ろしい野獣やおいはぎが待っている可能性が高いのです。しかしダビデには神がついておられる。だから主が彼を守って下さるはずだ。ヨナタンはそう信じてダビデに勧めたのです。「アドナイ・イルエ」、主の山の上には備えがあるのです。大丈夫!神がついておられるから…。そう信じた時、もうダビデは躊躇しませんでした。もしこの時彼が躊躇していたなら、ロトの妻のように彼も滅んでしまったかも知れません。

 「…私は…ただ一つのこと、すなわち、後ろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召して下さるという、その賞を戴く為に、目標を目指して走っているのです。」ピリピ31314

 …これから先、ダビデは敵の目をくらます為に、時に“狂人”を演じたり、山賊の親分などを経験しながら、“波乱万丈の人生”を送ります。…しかし主が彼と共におられたので、全ての問題は“訓練の時”となったのです。

 

 ――ダビデはヨナタンに何か報いたか…――

   さて、愛に富むヨナタンに、ダビデは一つでも恩を返すことができたでしょうか? いえ、彼はヨナタンに一つとして報いることはできませんでした。敢えて言えばヨナタンの死後、彼の息子メフィボシェテに幾分か報いることができた程度でした。ヨナタンとダビデの関係には、“イエスと私たちの関係”を思わせるものがあります。イエス様は私たちを罪の支配下から救い出す為に“丸裸”になって、ご自分の全てを私たちにお与え下さり、命までお与え下さいました。それに対して、私たちは何一つ報い得ないにも拘わらず、それでもイエスは私たちを愛し尽くして下さったのです。 “驚くべき愛”がここにあります。

 20:41→「子供が行くと、ダビデは南側から出て来て地にひれ伏し、三度礼をした。二人は口づけし、抱き合って泣いた。ダビデはいっそう(感動して)激しく泣いた。」

 真の友の犠牲的な愛と行動にひたすら感謝する。それ以外にダビデにはなす術が何もありません。それでもヨナタンは十分満足だったはずです。ちなみに、ヨナタンの意味は「主はお与えになった」です。

 「(神のなさった)全ての事を感謝せよ!」パウロはそう語っています。私たちは、主イエスのみ業に、この時のダビデのように、ただ感謝するしか術がないのです。

 「主の良くして下さったことを何一つ忘れるな!」 詩1032

 私利私欲を捨て、真実の友、ヨナタン(与える者)との約束を信じて、宮殿を捨てて荒野に入ってから40年後、訓練を受けて立派に成長したダビデは、イスラエルの王となって宮殿に戻って来ることとなるのです。

 私たちも地上の名誉を振り返らず、ひた向きにただ前を見て進み、“神の懐へと逃げ込む”者でありたいと思います。

 「こういうわけでこのように多くの証人たちが雲のように私たちを取り巻いているのですから私たちも一切の重荷とまとわりつく罪とを捨てて、自分の前に置かれている競争を、忍耐を持って走り続けようではありませんか」 ヘブル121

 涙と共に種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る。種入れ(の袋)を抱え、泣きながら出て行く者は、束を抱え、喜び叫びながら帰って来る。」 詩12656               

 

  

 

 

 

  2020.4.12 イースター礼拝   復活の希望に輝いた! ルカ24:36~53――

 

.彼らはエマオへと(日没へと)向かっていた 

  二人の弟子が“エマオ”という村に向かって歩いていた。一人はクレオパ(クロパ)という人であり、二人は夫婦だった可能性が高い。(ヨハネ19:25 

 後にクロパはペテロに継ぐエルサレム教会の指導者となる人で、夫婦して熱心な主の弟子であった。

 彼らが熱心な主の弟子であったことは、24:33~34→「二人はただちに立ち上がり、エルサレムに戻った…」と書かれていることからも分かる。

 彼らは誰も知らないはずの主の弟子たちが集まっているエルサレム市中の隠れ家を知っていた人たちだったからだ。

  エマオに向かう彼らはイエスの復活の知らせを同僚から聞いたばかりであった。ただその報告を二人は信じてはいなかった。

 彼らは非常に気落ちして故郷のエマオに帰ろうとしていたようである。

 エマオの村はエルサレムから西に約11キロ、徒歩で約二時間と言ったところだろうか?彼らは日没が近い、夕方のエマオへの道を歩いていた。                沈みゆく大きな夕日は、二人をまばゆく突き刺していた。その為だろうか、彼らは行きかう旅人たちに交じって自分たちに近づいて来るイエス・キリストに気づくことはなかった。…それも当然であろう。彼らの師イエス・キリストは三日前に、ゴルゴダの丘の処刑場で十字架に、はりつけにされて、なぶり殺されて、    アリマタヤのヨセフの墓に葬られてしまったのだから…。

 晴天が続く、土ぼこりの激しいエルサレム街道であった。司馬遼太郎は、紀行文の中で、「…晴天の続く乾いた道路の上を歩いた。そこはしゃく灼熱地獄のような世界であった。…陽炎(かげろう)と土ぼこりの為に、隣を歩くカメラマンの顔さえ分からない程の消耗であった…」と記している。二人はマントを頭からすっぽり覆って顔を隠すように、エマオへと続く道を歩いていた。彼らは、とにかく人目を恐れていたのである。今まで、自分たちがイエスの弟子だったということに気づかれないふうに、ほとんど負け犬のように歩いていた。…消耗、失意、恐れ、絶望、その上この不快な酷暑…が二人の心を暗くしていたのである。

 

――日の出に向かう者であれ――

「クリスチャンとは、日没に向かって歩む者ではなく、日の出に向かって歩む者である」「神学大全」を著した、中世の神学者、トマス・アクィナスの言葉である。

 

イスラエルの民は、40年間荒野をさ迷いながらも、日の出に向かって旅をしたことが民数記21:11に書かれている。クリスチャンは、アクィナスが言うように、“夜のとばり”にではなく“夜明け”に向かって進んで行く者でなければならない。だがこの時、二人は逆の道、日没にと顔を向けて歩んでいたのである。

 道中彼らは「それにしても…」と、話し合ったり、論じ合ったりしていた。だが終始彼らの話題は生産的なものではなかった。「…二人は暗い顔をして立ち止まった。」(24:17) 非生産的な話題や論争は、前進を阻むだけである。むろんここで彼らが何を話し合い、何を論じていたか、その内容は知るよしもない。だが、ある程度二人の話題を憶測することはできると思う。そこで彼らが語り合っていたと考えられる話題を幾つか推測してみよう。 “ヒント”となることばが書かれている。二人に語られた主イエスのおことばである。「…イエスは彼らに言われた。『ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったこと全てを信じられない者たち。』…」(24:25)弟子たちの話を聞かれたイエスは、このように嘆かれたのである。

 

――論じ合っていた幾つかの話題――

 二人の弟子たちが論じ合っていた話題は五つほどに分けることができると考える。

 彼らが今味わっている“悲嘆”について  あんなに大好きだったイエス様、自分たちの人生の全てを投げ出してまで従っていたイエス様が殺されてしまった…。悲しい、悔しい、辛い…。

 “自責の念”について  われわれは卑怯者だ。あの時イエスを裏切り、見捨てた、まるで未信者・不信者以下ではないか。そしらぬ顔をして自分たちだけ助かったのだから…。

 イエスへの“失望感”について  イエスこそ真のメシアであり、ユダヤをローマ帝国の圧政から解放してくれる王であると信じていた…。

 明日への“不安感”について  今度は自分達の番だ。殺されるかも知れない。逃げなくては、家にあるものを処分して、どこかに逃げなくては…これから先どう生きていけば良いのか…

 “不信感”について  主の復活の噂を耳にしたがあり得ない。信じられない話だ。ああ、いったいイエスの今までの話、あれは何だったのか?

 ひるがえってこれらの話題は、私たちの話題でもありはしないか? 実際私たちもこれらのどれか問題を日々抱えてつぶやきながら、

 西に向かっている時はないだろうか?

 そんな彼らに復活の主は現れ、そして寄り添うように歩いて下さったのである。

「西に向かうな。疑いと不信仰という暗い闇へと戻るな。東のエルサレムのあの祈り場へ帰れ!」。二人は旅人がそう語っているように思えたのではないだろうか。

「復活された主が、苦しんでいたエマオへと向かう自分たちの場所へとわざわざ来て下さった。そして語りかけて下さった。何という謙卑、何という愛、恵みだろう!」私たちにも復活の主は同じことをして下さるお方なのだ。復活の主イエスは難題を抱えた私の人生の道中の真ん中に入って来て下さる方なのである。

「…道々お話下さる間、私たちに聖書を解き明かして下さる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」(24:32)

 

.食卓でパンが裂かれた時、霊的眼は開かれた 

復活の主は旅人の姿に身をやつし、失望落胆して帰って行く孤独なふたりに寄り添われた。二人はイエスであることが判らなかった。イエスはエルサレムで起こった一連の出来事が、すべて旧約聖書に預言されていたことを説き明かされたのである。不思議なことに二人の心はこの間、燃え続けていたのである。

 日も暮れ故郷の自宅に着いた時、二人は旅人に、24:29→「いっしょにお泊りください」と招待した。それにしてもなぜ彼らは、

 この旅人が主イエスであることがなぜ判らなかったのだろう。それほどまでに頑なに彼らはキリストの復活を信じていなかったのである。

 

――これまで何度も主は復活を語っておられたのに――

イエス様は何度もご自分の死と復活について語っておられた。マルコ8:31→(ピリポ・カイザリヤで)。同9:31→(ガリラヤで)/同10:33~34→(ユダヤとヨルダン川の向こうで)。ある時は、一番弟子のペテロですら、イエスが語られた復活を否定したことでイエスによってサタン呼ばわりされている(マタ16:23)ほどであった。この例からしても、復活の教理以上にキリスト教教理中、大切なものはないことが判る。

復活の教義はキリスト教会の心臓部なのだ。復活を信ぜずして何の力が心に湧き出ようか!彼らは心臓を持たない主の弟子だったのである。

 だがついに今それが判る時が来た。それは招いた彼らの自宅で、この旅人がパンを手に取って分けられたその時であった。二人はパンを裂かれる旅人の両手に手に幾つかの思い出を見たのである。

 普通はもてなす側の主が客にパンを裂いて配るものだ。ところがここでは順序が逆で、客がパンを配っているのである。そしてこの時、彼らは気づいたのだ。「ああ、主だ。主イエス様だ!」と。「ああ、それで、このお方が道中聖書を説明してくださった時、あんなにわれわれの心が燃えていたのか!」

 ヨハネ201316を見れば、マグダラのマリヤも復活の主に名前を呼んでもらうまで、霊的に目が開けていなかったことが分かる。どんな恵みの中に置かれていようと、霊的に眠った状態では神を認めることはできないのである。 そういう意味でも聖餐式はとても大切で恐れ多い儀式であることが分かる。

聖餐式は主と食卓を共有する時だからだ。私たちも感謝して聖餐式に臨みたい。十字架と復活の主にお目にかかる為に…。

 

.彼らはその日のうちに東(エルサレム)に向かった 

二人がエルサレムに帰るには11キロも歩かなければならなかった。だが、33説「二人はただちに立ち上がり…」とあるように、すぐに彼らは家を立ったのである。もう躊躇する思いは消えていた。人生が、主の復活を知ったことで一変したのである。

 イースターはあなたの人生に一大逆転を与える出来事だったのだ。すべてがダメ。だが主の復活の奇蹟が全てを回復させたのだ。

「イエスご自身が彼らの真中に立たれた」(36節)ここに、イースターの希望を見ることができる。

 使徒パウロは、復活こそがキリスト教の根幹であると言っている。

「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」(Ⅰコリント15:17)

▼陶磁器の積み出し港として栄えた佐賀県の伊万里で、代々一番の陶器問屋に生まれた少年がいた。しかし彼の父親の代には家勢も衰え、        6歳の時、父が病死すると財産は人手に渡り、母は再婚して家を出て行ってしまった。その後彼は親類の家を転々とする幼少期を過ごす。

 やがて伯父の山崎文左衛門に引き取られて山崎太一郎となり、商人の心構えを教え込まれた。12歳まで自分の名前さえ正確に書けなかったことから、奉公の余暇に手習いをさせてもらう約束で本屋の住み込み店員となり、13歳で野菜の行商人、15歳から伊万里焼の問屋に奉公、19歳で上京、叔父が出資していた横浜の合資会社有田屋で働いた。20歳で結婚し、翌年九谷焼を外国商館に販売していた横浜の陶器問屋道谷商店で数年を過ごしたが、同店が倒産し、債権者への返済のために店の商品を海外で販売することをもくろみ、明治21年24歳の時に妻と長女を日本に残して20歳代前半で渡米。陶器を売って大もうけしようと試みたが失敗。英語も話せない彼がうまく商売ができるわけもなく、借金をかかえ、希望を失った。

 そんな時、アメリカ製のキャンディーを食べ、「これだ!」と直感、日本で製造販売しようと思い立ったのである。生活のため、ある家でハウスボーイをしていた。その主人はM・C・ハリス牧師という高潔な人であった。キリスト教が大嫌いな彼だったものの、ハリス夫妻の人徳の高さと優しさに触れて、やがてイエスを救い主と信じて受浸、クリスチャンとなる。

 紆余曲折あった後、洋菓子製造方法を学び、日本で洋菓子屋を開店。移動販売の車の屋根に、「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた。復活の主を信ぜよ!」と大書し、商売と同時に、主イエスの福音を伝えた。彼の名は森永太一郎、森永製菓の創始者である。彼は、行く先々で「人生の大逆転!イエスの復活が人生を変える!」と叫び続けた。“キリストの復活”は、聖書最大の逆転物語である。主の復活を信じる者は、人生を変える力を持つことができるのだ。 

彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。 (24:52-53)

 あなたの人生に大逆転を起こして下さるお方、それが復活の主イエス・キリストである。その時主は、あなたの心の真ん中に立ち(24:36)、あなたの人生に大いなる平安を与えて下さるのである。

 

 

 

2020.3.29  寄り添われる神  創世記6章 

 

  人類の父祖、アダムとエバに授けられたセツ(殺されたアベルの代わりのように生まれてきた)から800年が経ち、人は膨大な数に増えていました。

  一族はそれぞれ独立して別な地域に住み、互いに大きな文明共同体を作り上げていました。

 それらの町々は立派で、私たちが生きる現代文明社会に近い経済・文化圏を作っていたと思われます。

  しかし人の数が増え始めると同時に悪も増え始めたのです。神様は忍耐して善悪が混合する地上世界に住む人々に、寄り添いじっと見ておられました。

  しかしどこを見ても神様の目にかなった人間を見つけることはできなかったのです。

  主は地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。

   それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。 創6:5~6

  地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、見よ、それは堕落していた。

   すべての肉なるものが、地上で自分の道を乱していたからである。 創6:11~12

  そんな中、セツの息子メトシェラの子レメクが産んだ子、ノアだけは違いました。

 

.ノアは、在臨のイエス信仰で生きた 創6:9 

▼『独裁国家に行ってきた』という本があります。著者は世界204カ国をまわった人です。この人が「この国ほど出国できた時にホッとした国は他になかった。」と言い切った国があります。貧富の差が余りにも激しく、治安が滅茶苦茶なのです。スラム街では道端に死人が普通に倒れています。殺人発生率は日本の50倍。ホテルの近くで待ち伏せされた彼は私物を強奪されてしまうのですが、宿の従業員は見て見ぬ振りをします。それどころか警察を呼んでもすぐには来ないのです。警官自身が殺されることを恐れている為、時間をおいてからでないと出動しないのです。いやそれ以上に、「警官や軍人など制服を着ている人を見たら逃げなさい。彼らは恐喝してくるから。」と忠告されてしまう始末なのです。どこに行っても賄賂を要求されるばかりで、昨年末のインフレ率は異常に高く、この国ではお金も信用できません。…その結果どうなったでしょうか?たくさんの国民が国から逃げ始めたのです。…すでに国を脱出した国民は二百万人を超えたと言われています。この国は「信じられるものが一つもない国」なのです。信じられるものが何もないと、人はそこから出て行かざるを得ないのです。

 

ノアが生きた時代の人々も似たような感じだったかも知れません。暴力が溢れ、道徳は退廃し、神を忘れた人間の堕落ぶりはひどいものだったのです。殺人事件、汚職、悪の増大常態化していたのです。こんな中で一体誰を信じられるというのでしょう?しかしノアは現実から逃げませんでした。彼は「在臨の神」を信じて歩む信仰者だったからです。

   信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神から警告を受けた時に、畏れかしこんで家族の救いの為に箱舟を造り、

   その信仰によって世を罪ありとし、信仰による義を受け継ぐ者となりました。ヘブル117

   また、かつての世界を放置せず、不敬虔な者たちの世界に洪水をもたらし、義を宣べ伝えたノアたち八人を保護されました。Ⅱペテロ25

 

  とあるように、ノアはこのような堕落した世の中でも、率先して宣教に励み続けたのです。ノアの箱舟は、何と120年間かけて建造されたと言われていますが、その間彼は並行して宣教にも励んでいたのでした。ノアは常に在臨信仰に生き、それによって神の守りを得た人だったのです

  彼は「主の心にかなって」いた人でした。そのような歩みを続けることは大変なことでした。ですが彼は「在臨の神」信仰を持って

  主の命通りに箱舟を造り上げ、そして家族、周囲の人々に箱舟に入って救われるように伝道したのです。その甲斐あって家族は皆救われたのでした。

  彼は人々がどう言おうと“信仰の道”をひたすら歩み続けた人でした。

     少し考えて見て戴きたいのです。ノアが生きた時代、聖書はまだなかったのです。まだ旧約聖書は記されていませんでした。

  それでも彼は神を畏れかしこみ、主の道を深く思い巡らしつつ、真の神を礼拝しながら生きたのでした。

  ノアは正しい人で、彼の時代の中にあって全き人であった。ノアは神と共に歩んだ。 創6:9

  聖書は彼のことをこう紹介しています。ノアが「正しい人」であったと言うのは、神の前に“パーフェクト”な人だったという意味ではありません。

  彼にも弱い所もありました。それは彼が後に経験する失敗談などを見れば分かります。改訂訳聖書の脚注にはこう書かれています。

 ※ノアは「主の目に恵みを見出だした」と。

  これは彼が主の深い恵みと憐れみを信じて歩んだという意味だと思われます。「私たちは恵みによって救われたのです。」とパウロも言っています。

  私たちの信じる神様は恵みの神なのです。

スペインにルイスという伝道者がいます。彼はいろいろな所に出かけて行って講演するのですが、37歳の時に交通事故に遭い、首から下が動かなくな  り、それ以降車いす生活を続けています。しかし彼は精力的に仕事を続け、首を動かすとカーソルが動き、息の力でクリックできる特殊なパソコンを用いて、本を出版し、大学で講演、テレビにも出演し、人を励ます前向きな神のメッセージを届け、事故以前よりも更に精力的に活動をしているのです。いつも穏やかな彼に対して、不思議に思った記者がある時彼にインタビューしました。「あなたは事故で体が不自由になったというのに…、いったいどうしてそんなに明るく希望を持って生きられるのでしょう?」ルイス氏は答えました。「そうですね。事故で失ったものはあります。しかしそれは、億万長者が千円を落としたようなものですから。」ルイスさんは失ったものよりも、今も日々与えて下さる偉大な神を見上げているので大丈夫と言っているのです。

 

「主にすがる者に悩みは無し、十字架の御許(みもと)に 荷を下ろせば、歌いつつ歩まん、ハレルヤ、ハレルヤ、歌いつつ歩まん この世の旅路(たびじ)を、

 恐れは変わりて、祈りとなり、嘆(なげ)きは変わりて、歌となりぬ、歌いつつ歩まん、ハレルヤ、ハレルヤ、歌いつつ歩まん この世の旅路(たびじ)を」

 聖歌516

 

.恵みの神を信じて歩んだ 創6:8

 パウロは、「神様は、『恵みの神』である」と語っています。また「わが恵み、汝に足れり!」とも言いました。「ああ、神の恵み…感謝だなー!」

 パウロはいつもそう思って生活していたのです。そのような彼の信仰を神様は祝福されました。恵みの神を信じて歩んだノアを神様は喜ばれ、

 このノアを用いて“世直し”を図られたのです。その“世直し”の為に神様が用いられたものが “ノアの箱舟”だったのです。

 それにしてもこんなに素晴らしい人物の霊的影響を受ける人が、当時一人もいなかったというのは驚きです。それほど人間の心とは堅いものなのです。

 人々はひたすら堕落の一途を辿って行きました。主イエスは、この時の様子についてこう語っておられます。

 「洪水前の日々にはノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。」 マタイ2438

 “神のかたち”に造られたにも拘わらず、人々の関心事はこの世のことだけであって、彼らは欲望のままに生活していたのです。

 義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。全ての者が離れて行き、誰も彼も無用の者となった…

  …彼らの目の前には、神に対する恐れがない。 ローマ31018

 しかしノア(だけ)は主のこころにかなっていた。 創世記6:8 

 

.箱舟は教会のひな型である 創61113

▼新型コロナ肺炎が世界中を震撼させています。この疫病が世界中に蔓延した理由は大きく二つ挙げられるようです。一つ、この病気は自覚症状のない潜伏期間が二週間以上も続くのです。そしてその潜伏期間中も人に感染する。自覚症状がないので色んな人と接触してしまうのです。かかってすぐ症状が出れば、みんなすぐに治療を受けに病院に行ったのでしょうが、「自分は健康だ」と思っているので、早期治療を受けることができなかった。そして数週間後のある日、突然症状が出るわけです。…ここがこの疫病の恐ろしいところです。

二つ目の理由は、発生したことを初期に発生した国がもみ消したこと、またWHOが早期に適切な指示を出さなかったこともあるとも言われています。当局は事実を隠蔽して情報をなかなか公開せず、問題があるのに問題がないかのようにふるまったのです。隠蔽した理由は大国としてのメンツにこだわったからでしょう。しかしこれが命取りとなったのです。いったい国の面子と人のいのちのどちらが大切なのでしょう?

 

「教会では、説教で『あなたは罪人です!』と言われるから嫌いだ!」という人がいます。そして「神の前に悔い改めたい人は手を上げて下さい!」 

と勧められても、手を上げて自分の罪を認めようとする人が近年とても少なくなってきているように牧師として私は痛切に感じています。

 更にまた現代は高等教育を受けている人が多くなってきていますので、メンツにこだわって罪を認めて神を信じる人も近年は少なくなってきているようにも

  感じます。しかし聖書は言っています。「あなたは罪人である。それを素直に認め、イエスを信じて神に立ち帰りなさい!」と。

 

 病人が病院に運ばれても、本人が同意しなければ、医者は勝手に手術できません。罪を認めて、主を仰げば「あなたは救われる」聖書はそう言っています。

 あなたは如何でしょうか?

 聖書は、人がイエス・キリストによる罪の赦しという治療を、絶対的に必要としているということを自覚させるために神が私たちに与えて下さった

 特別なことばです。聖書は、自分が自分の力では解決できない、“罪の重病人”であることを認めさせてくれる書物です。

 だから神のことば聖書を読む時、人は魂の治療を始めることができるようになるのです。主イエスはあなたに寄り添って下さる神様です。

 この世がどうあろうと神が神を信じる民を捜し出し、見つけ、ノアにして下さったように寄り添って下さいます。

 

 9年前、大きな津波に襲われた東日本大震災時、ある病院での話です。建物内のほぼ全員が避難して四階に上がっていました。津波の勢いは止まらず、三階の天井まで後数十センチのところまで水が上がってきました。「もしかしたら、三階の天井と水との間に顔を突き出して助けを求めている患者さんがいるかも知れない」。そんな状況でした。その時でした。ある看護師さんは普段は仕事に差しさわるからと、結婚指輪を外して仕事をしていました。でもこの時この看護師は、意を決したように結婚指輪をはめて三回に降りて偵察に行ったのです。ある男性職員は太いマジックペンで、急ぎ両腕に大きく自分の名前を書いて偵察に降りて行きました。二人とも、もし死んだらこの遺体が自分であることが救助隊に一目で分かるようにとそうしたのです。彼らは命を捨てる覚悟で偵察に行ったのです。

 イエス・キリストはそれ以上のお方です。いのちを捨てる覚悟ではなく、いのちを捨ててあなたを救う為にあなたのそばに来て下さったのです。

  何の見返りをもあなたに求めないで…。

 このお方は感謝するに値する方ではないでしょうか?その人格に感動し魅せられ、その人格を信用するにあまりある方ではないでしょうか。

  罪人の後始末を自分の身に背負うという100%のリスクを承知の上で、この世に来て、十字架にかかって死に、墓に葬られ、

  三日目によみがえって下さったイエス・キリスト。この救い主キリストを信じさせて戴いていることを感謝してこの一週もご一緒に歩んで行きたいと思います。

 

 

 

 

2020.3.8  神の祝福と呪いの契約!  出エジプト記1章1節~22節

 

.神とクリスチャンの契約は永遠である!(1:1~7)

 

1:1 出エジプト記第1章は、ヨセフの父親、“ヤコブとその息子たち一族”が、食料を求めてエジプトへと下って(創4711)行ったところから始まります。彼ら一族の名は、「ルベン、シメオン、レビ、ユダ。イッサカル、ゼブルン、ベニヤミン。ダンとナフタリ。ガドとアシェル。」(124と書かれていて、その総数は70名でした。彼らはエジプトのナイル河畔のゴシェンの地で平和に暮らしましたが、やがてヨセフや兄弟たち、その時代の人々は皆死んでいきました。それから四百年の歳月が流れましたが、「イスラエルの子らは多くの子を生んで群れ広がり、増えて非常に強くなった。こうしてその地は彼ら(イスラエル)で満ちた。」と書かれているように、その地でイスラエルは大いに栄えていたのです。17

 

真の神様は、ヤコブやヨセフがこの世を去った後も、ずっと絶やさずイスラエルとの約束を覚えて守って下さっていたのです。「…神は仰せられた。『わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民とする。』このわたしが、あなたと共にエジプトに下り、また、このわたしが必ずあなたを再び連れ上る。…」(創4634

 

この“契約”はかつて、アブラハムに対しても与えられていたものでした。

 

「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。(創1212)」

 

神様の神を信じる者たちへの“契約”は必ず守られるという真実を私たちは、しっかりと覚えておく必要があるのです。アブラハムやヤコブやヨセフたちが生きていた時代だけ“神の契約”は果たされていたわけではありません。彼らは死にましたが、その後も“神の恵みの約束”は果たされ続けていた、つまり “神の恵みと祝福”はそれ以降もずっと続いていたのです(出エ206)。

 

何という恵みでしょうか。私たちが神を信じて信仰深く歩みさえすれば今も尚、神の祝福の契約(約束)は私たちのみならず、子供たち、子々孫々にまで及び続けることを聖書は教えているのです。私たちは、とかく自分の頭の中で勝手に時代を“区分”して考えがちです。「アブラハムの時代、ヤコブやヨセフの時代までは神様は働いておられたが今は、時代が違う」だとか、「キリストの時代は奇跡の時代だったかも知れないが、今はもう違うだろう」…などと勝手に考えがちです。確かに特別啓示の時代は終わりました。…しかし時代がどう変わろうとも、神を信じる者への神による祝福の約束は変わらないのです。神様はいつの時代も働いて下さっておられるのです。イエス・キリストによる、十字架の愛がそれを表しているのです。キリストを救い主と心に信じるなら誰でも人は救われ、この約束を戴くことができるのです。

 

▼『カモメに飛ぶことを教えた猫』という小説があります。港町に住む“野良猫”ゾルバは、ひょんなことである日、海に流れ出た原油に羽をやられた一羽の瀕死のカモメに出会います。このカモメ、黒猫ゾルバに三つの願いを託すのです。一つ目の願い、「自分はこれから卵を産むけれどそれを決して食べないでほしい。」…猫という動物は、本能的にカモメや卵を食べてしまう性質があるのですが、心優しいゾルバはその願いを承諾します。二つ目の願い、「その卵を世話してヒナをかえしてほしい。」「僕は猫だよ。羽なんかない、なのにどうやって?…」「それはあなたが考えて。」…ゾルバは、仲間の猫たちの助けを借りて、80日間猫の毛で温めて卵をかえしてあげるのです。…そして、ヒナを「フォルトゥナータ(幸運な者)」と名付け、一生懸命に世話をしました。三つ目の願い、これが一番難しい要求でした。「ヒナが大きくなったら飛ぶことを教えて上げてほしい。」…生まれて来て、最初に猫を見たカモメのヒナ、フォルトゥナータは、自分は猫だと思い込んでいます。もう羽が生えているのにゾルバと同じように地を駆け巡るのです。しかもゾルバは飛べないのに、どうやって飛ぶことを教えて上げれば良いのでしょう?ある日ゾルバは、海岸で休んでいる一羽のカモメを見つけると、飛び方を尋ねるのですが「飛び方なんて知らない!」と言われてしまいます。ただ明日カモメの群れが南に向けて旅立つこと、冬が来る前に南に向けて飛び立たなければこの街の寒さに耐えきれずにカモメは死んでしまうことを知らされるのです。一刻も早くフォルトゥナータに飛び方を教えなければ、と焦るゾルバ。ここから話はクライマックスへと向かいます。…そうしてゾルバは面食らいながらも、どんな困難に遭っても、フォルトゥナータに“猫人生”を捧げて飛ぶことを教えようとするのです。そして教会の高い塔に昇って行き…、さて、フォルトゥナータは飛べたんでしょうか?こうしてゾルバは、フォルトゥナータの母親との間に交わした“三つの約束”を果たし終えたのです。

 

▼作者は何を言おうとしているのでしょうか?ゾルバは約束を守る為に、猫人生全てをヒナ鳥に捧げたのです。そしてそれによってヒナ鳥は“真の愛”を知ることができたのです。猫とカモメとを結びつけたものは“愛”でした。愛は永遠、不滅です。キリストの十字架こそ罪人である私たちへの愛の契約です。キリストはあなたを救う為にご自分の持つ全てのものを犠牲にして下さいました。ご自身が有名になることも、ご自分の利益も何一つ求めず、ただ私たちが救われる為に幸福であるが為に生き、苦しみ、死んで下さいました。まさに「いのちもいらず、名もいらず…」、西郷さんもそうでしたね。キリストの十字架による“愛の約束”を私たちは覚えて、罪赦されていることを感謝して日々を歩みたいと思います。

 

.クリスチャンは、何者をも恐れなくていい!(1:8~14)

 

ヨセフの時代の為政者であったエジプト王パロは、ヤコブの家族に対して親切にしてくれました。王はヨセフの神信仰のゆえにエジプト全土が祝福されていることを知って、ヨセフをエジプト第二の地位、総理大臣にまで就かせてくれたのです。しかし400年後に現れたエジプト王、トートメス1世(BC1504~1450)はイスラエルを祝福して下さっている真の神については全く関心がありませんでした。それどころかパロはエジプトの民に言ったのです。「見よ。イスラエルの民はわれわれよりも多く、また強い。さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いというときに敵側についてわれわれと戦い、この地から出て行くことがないように。(19)」 新しいエジプト王にとってイスラエルの存在は、「いまいましく厄介な存在」になりつつあったのです。なぜならイスラエル人は非常に賢く、強く、人口も増えていたからです。パロは彼らの持つ力が神から来ていることを知りませんでした。この時期、エジプトは空前の繁栄期にありましたが、実はその繁栄の鍵はへブル人の働きにあったのです。それでパロはイスラエル民族の力を更に利用して自国の繁栄図ろうと考えたのです。

 

「そこで、彼ら(ヘブル人たち)を重い労役で苦しめようと、彼らの上に役務の監督を任命した。また、パロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。しかし、苦しめれば苦しめるほど、この民はますます増え広がったので、人々はイスラエルの子らに恐怖を抱くようになった。11114)」

 

「苦しめれば苦しめるほど、イスラエル人たちは、増々増え広がった」という言葉に注意したいのです。実は神を信じる人々にとっては、患難や苦しみ、迫害や苦難すら、神の恵みであることを意味するからです。このことは、キリストの約束のみことばを信じて歩む私たちクリスチャンにも言えるのです。私たちはイエス・キリストを信じて、この方についていく決断をした時から、様々な悪魔の攻撃を受けるようになるのです(Ⅰペテロ58)。それは歴史を見ても分かります。キリストの教会が“いのち”を持ち始めた時、その働きを止めさせようとする動きが起こりました。しかし、どんなに反対や迫害が起こっても、その度に教会は強められ、むしろ主の御業は大きく前進して来たのです。神の働きが、人々の反対によって阻まれることはありません。むしろ、迫害されればされる程、教会とクリスチャンは前進して来たのです。「殉教者は教会の種である」という言葉がありますがその通りなのです。

 

▼300年前、フランスの啓蒙思想家であったヴォルテールは、“理神論”の立場から激しくキリスト教会を批判し、彼の人生の多くの時間をキリスト教批判に注ぎ込んで豪語しました。「50年後には、キリスト教は抹消されるだろう。同時にこの地上から教会は消え失せるだろう!」、しかしその預言ははずれました。彼の死後、ヴォルテールの家は、聖書の印刷工場となったのです。

 

ところでエジプト王は、増え行くイスラエル人をどう扱ったでしょうか?「それでエジプト人は、イスラエルの子らに過酷な労働を課し、漆喰やれんが作りの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、彼らに課す過酷なすべての労働で、彼らの生活を苦しいものにした。(11314)」

 

エジプト人は、神の働きを計算に入れず、イスラエルの人々に対してより一層迫害を強めていきました。しかし神のお働きを無視した王の策は神を怒らせ、エジプトへの祝福は失われて行きました。…なぜなら神は、約束の通りアブラハムを祝福する者を祝福し、アブラハムをのろう者をのろわれるお方であったからです。

 

ヴォルテールと同じフランスの文学者、ビクトル・ユゴーの言葉を紹介します。「人生における最大の誤算を上げるとすれば、それは真の神を信じない、真の神の言葉に従わない生き方を選ぶことにある。」

 

.どんな人の命令も、神の命には勝らない!(1:15~22)

 

11522→ パロは最初のうちは、イスラエル人の力を利用しよう…程度の悪意を持ちましたが、自分の手に負えないことが分かると、ヘブル人の助産婦たちに、もし男の子が生まれてきたら殺し、女の子なら生かしておくように、という命令を下したのです。しかし助産婦たちは神を畏れていましたので、エジプトの王が命じた通りにはせず、こっそりと男の子を生かしておいたのです。

 

エジプト王は助産婦たちを呼び寄せて言いました。「…なぜこのようなことをして、男の子を生かしておいたのか。(118)」それに対して助産婦たちはパロに対してこう答えました。「ヘブル人の女はエジプト人の女とは違います。彼女たちは元気で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」…これが本当のことかどうかは判りません。…恐らく彼女たちは「あの家で赤ちゃんが生まれるよ!」と聞くと、間に合わないようにわざとゆっくり行ったのではないでしょうか?…そして現場に行った時には、もう赤ちゃんが生まれていた、というふうに、時間をうまい具合にセッティングしていたのではと思います。ちなみに17節以降の文面には、「助産婦」という言葉が8回も記されています。更に15節には、二人の助産婦の名前まで書かれているのです。わざわざ助産婦の名前を神のことば、聖書は記している、これは、彼女たちがエジプト王の言葉よりも、真の神を畏れ、命がけで、男の子たちの命を救った姿を聖書が高く評価していることを表しています。助産婦たちの言葉と行為は、まさに「いのちがけ」だったのです。ですから、神様は、彼女たちを大いに祝福されました(12021)。

 

「麗しさはいつわり、美しさは空しい。しかし主を恐れる女は褒めたたえられる」(箴3130

 

…この助産婦たちの命がけの行動と言葉は、他のイスラエル人の全ての助産婦たちに勇気を与えたに違いありません。そして彼女たちの命がけの言葉と行動は、モーセというイスラエルを導く大指導者を生み出すというところにつながって行くのです。逆に言えば、彼女たちの活躍なくして、モーセが生み出されることはなかったとも言えるでしょう。彼女たちは偉大なる裏方さんたちだったのですね。

 

「恐れなければならない方を、あなた方に教えて上げましょう。殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなた方に言います。この方を恐れなさい(ルカ125)」

 

私たちも同じです。世を恐れる必要はありません。これからも人を恐れず、神のみを畏れて大胆に信仰者として歩んで行きたいと思います!ヘブル416

 

▼ですがことはまだ終わりませんでした。「パロは自分のすべての民に次のように命じた。『生まれた男の子はみなナイル川に投げ込まなければならない。女の子はみな生かしておかなければならない。(122)」 狂気の沙汰です。パロはヘブル人の子供たちを根絶やしにしようとしたのです。…けれども私たちは出エジプト記のこの出来事の先に起きる事件を知っています。やがてパロはエジプト軍と共に紅海の水の中で溺れ死ぬ運命を辿ることになるということを…(142728)。つまりパロがイスラエルの民を水の中に投げ込んで殺すという呪いを与えたことで、それはわが身に返り、自分たちが水の中で溺れ死ぬことになってしまうのです。「あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。(創123)」とのみことばがここに成就するのです。パロが率いるエジプト軍は神の呪いを受けてしまうのです。そうなる前にヨセフの時の王のようにイスラエルの力となっておられる真の神のお力を彼は認めるべきであったのです。

 

神様は信じる者に大いに祝福を与えて下さるお方です。しかもその祝福は今も、これから先も私たちが天の御国に入る日まで続くものなのです。しかし残念ながら、神を信じない者には主の祝福は与えられないという厳然たる真理をも覚える必要があるのです。素晴らしいこのキリストの福音を伝えて行きましょう。

 

私は今日、あなた方に対して天と地とを証人に立てる。私は、いのちと死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。 申命記30:19

 

 

 

 

 

2020.1.19 永遠に朽ちないものをあなたに! テサロニケ1:1~3/Ⅰコリント13:13

 

ついこの前まで最先端だったと言われるものが、あっと言う間に古びてしまう時代…    新しいものはすぐに古びていく。

   …日の下には新しいものは一つもない。『これを見よ。これは新しい』と言われるものがあっても、

   それは、私たちより遥か前の時代に、すでにあったものだ。前にあったことは記憶に残っていない。

   これから後に起こることも、さらに後の時代の人々には記憶されないだろう。 伝道者の書1:9~11

しかし聖書はいつの時代にも、決して価値を失わないものが三つあると語る。

   絶えず、私たちの父なる神のみ前に、あなた方の信仰の働き、愛の労苦、

   主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。Ⅰテサロニケ1:1~3

今朝この箇所から三つ、時代がどのように移ろうとも、永久不滅の価値を持つものについて見てみたいと思う。

 

I 第一に大切なものは神への“信仰”!

神への信仰、信仰という言葉は信頼という言葉に言い換えても良い。あなたの救いを完成して下さった

イエス・キリストを信じる、その結果あなたは救われるという真理を信じることである。  これは古びたり、変わったりしない。

  人はみな草のよう。その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。

  しかし主の言葉はとこしえに変わることはない。 Ⅰペテロ1:24~25

だからこの真理をしっかり胸に掲げて人生を歩みなさい。それがあなたの人生における祝福となる。

ところで親は子に何を求めるだろう? 親が自分の子供からして貰って一番嬉しいこととは何? 

子供に尊敬して、信頼して貰うこと、これ以上の喜びなど他に無いのではないだろうか?

父なる神様についても同じことが言える。メーカーなる父なる神が人に対して何より喜ばれること、

それは私たちの神を信頼し、尊敬して、敬って歩むこと。神が求められているのは、ただそれだけなのだ。

だから聖書は言う。神を敬え、神を信じなさいと!

聖書はまことの神のことを「父なる神」と教えている。神は私たちの創造主だから。聖書にはこう書かれている。

   あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける主はこう仰せられる。

   「恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルン(目の中に入れても痛くない可愛い子)よ。

   わたしは潤いの無い地に水を注ぎ、渇いた地に豊かな流れを注ぎ、私の霊をあなたの末に、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。」  イザヤ書44:2

だから私たちがするべきことは、ただこのお方に、堅く信仰を持って感謝して歩めば良いのである。

…わたしは始めであり、わたしは終りである。私の他に神はない  イザヤ44:6…10

…わたしがあなたを造り上げた。あなたはわたし自身のしもべ。…わたしは、あなたの背きの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのように拭い去った。私に帰れ。

わたしは、あなた(の罪・汚れ・ゴミを)を(十字架の血潮によって)贖ったからだ。 イザヤ21~22

 

 

――ゴミ収集という仕事――

行政学の研究者が東京の新宿区で、9か月に渡って清掃員としてゴミ収集の現場を体験したレポートがある。

新宿区には“歌舞伎町”という日本最大の歓楽街があり、そこから出るゴミは想像を絶するものだったとこの研究者は言う。

ゴミの収集車はゴミを“押し板”でプレスしながら一台当たり、最大約二トンのゴミを詰め込む。

  ファミリータイプのマンション下では容量いっぱいに「紙おむつ」などを詰め込んだ袋が多く、雨を吸っていてずっしり重い。 “ゴミバケツ一杯”に詰められたゴミを「小型プレス車」の投入口まで抱え上げて行ってひっくり返す作業は、やってみないと分からない辛さだそうだ。プレス車の回転盤は縄跳びに入ってくように、うまくタイミングを見計らって投げ込まないと、袋が地面に投げ出されてしまって拾い上げるのに余分な体力を使うハメになる。しかも、均等にタンクの中に押し込まれるように左右に投げ分けなければならない。またこの作業は危険を伴う作業でもある。ゴミ袋の中には注射器、避妊具、下剤、人糞、動物の死骸が入ったゴミ袋まである。

だから慎重に取り扱いたいのだが、時間がそれを許さない。…職員たちはみな“破傷風のワクチン”を打って仕事をしていると言う。

  スプレー缶や電池が入っていると圧縮しているうちに爆発し、火災を起こすことがある。

ひとたび火災になれば運転手や作業員が危険にさらされるのはもちろん、一台900万円もする清掃車が瞬時に廃車になってしまう。更にゴミの中にはルール破りのものが沢山あるのだ。特に、きちんと水気を切っていないゴミは最悪で、プレスされるときに水分が飛び散る。通行人にかかると取り返しのつかないトラブルになる。そこで作業員が身を挺して盾となって、“ゴミ汁の飛散”を体で食い止めながら作業しているのである。新宿区には、“ゴミ焼却場”がない。だからタンクが満杯になった車は、指定された遠方の焼却場へと向かう。その作業が終わるとすぐに作業員は、別の場所に待機している2台目の清掃車のもとに走る。こうして2台の車を使い回すため交通事情によってはどうしても待ち時間が生じる。車の到着を待っている作業員を見かけた住民は「ちゃんと働け!」とクレームをつけてきたり、「さぼっているぞ!」と通報されたりする場合もあると言う。…清掃車の運転手は収集作業が終わると、翌日に備えて車を洗剤を使って臭いが残らないように、念入りにタンクの中まで丁寧に洗浄する。ゴミという汚く、臭い、誰もがイヤがるものを運搬するのだから、車まで汚れていれば住民はいい気分にならないから…と言うのである。

  心無い言葉にも作業員はいちいち怒ったりしない。彼らは分かっているのだ。…もしこのゴミを自分たちの生活圏から運び出してくれる者がいなくなったら、町がどうなるかということを。街は汚れ、カラスが襲いかかり、臭いが立ち込め、不衛生になり、ハエやゴキブリやネズミが大繁殖し、伝染病蔓延のもとになってしまう。

ゴミという不愉快なものを持ち去ってくれる人がいるからこそ、人々は快適な生活が出来るのである。

   …わたしは、あなたの背きの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのように拭い去った。私に帰れ。

    わたしは、あなた(の罪・汚れ・ゴミを)を(十字架の血潮によって)贖ったからだ。 イザヤ44:22

イエス・キリストは人類が生み出す最悪のゴミである罪を永遠の彼方に持ち去る為にこの世に来て下さったのだ。

考えて見て戴きたい。物理的なゴミを背負うことがこんなにまで耐え難いことであるなら、罪という醜いゴミを抱きかかえて持って行くということは

どんなに苦しいことだろう。それが十字架での贖いの内容なのだ。

    天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てた方。

     まことに、この主がこう仰せられる。私が主である。ほかにはいない。 イザヤ45:18

 

II 第二に必要なもの、それは“希望”!

    こういうわけで、いつまでも残る者は信仰と希望と愛です。 Ⅰコリント人への手紙13:13

  希望と言うと日本語では必ずしも良い意味ではない。“希望”の「希」という文字は「うすい」と読めるし、「まれ」とも読める。すなわち日本語の希望という言葉は、

  望みが薄い、稀にしか叶わない望みというニュアンスが込められている。しかしながら聖書の中では希望と言えば、それは必ず起こることを意味している。

  もしあなたがイエス・キリストを信じているなら最低三つのことに希望が持てるのだ。

①神は悪い事でも最後には良いことに変えて下さるという希望  ローマ8:28

今、目の前で展開しているのは全体像の中の一部であり、神はそれ自体は良くないことを用いて、最終的には良きものに変えて下さるお方なのである。

②良い事は決して取り上げられないという希望

神は良い方ですから良いことを取り上げる事はなさらない。

③一番良い事は、これから必ず起こるという希望

人生の終わりに待ち構えているのは死である。しかしキリストを信じた人にとって、死ですらも希望に変えられてしまう

なぜならキリストは死を滅ぼして下さったからだ。

イエス・キリストは十字架の上で死に、墓に入れられが、三日目によみがえって、墓から出て来られたのである。

このキリストを救い主とする人には、キリストの身の上に起こったことが起こることが約束されている。

つまり、死んだままという事はない。必ずよみがえる時が来るのである。

     聖歌679番「とわの安き来たりて」

   「とわの安き来たりて、ああその朝、悩み多き世は去る、ああ、その朝、ああその朝、ああその朝、義の日は出でて輝かん。

     ああその朝、ああその朝、救い主に我ら会わん。」

…しかり。わたしはすぐに来る。アーメン。主イエスよ、来て下さい。 ヨハネ黙示録22:20 

今も日本で、世界で、ひどいことが起こっている。しかし、神は世界の最後を喜びで終わらせるお方なのだ。  その為に神は今日も働いておられる。

 

III 三番目に朽ちないもの、それは愛!

▼フロリダに住むブロック夫妻の一人息子、デイビッドは4歳の頃、重い自閉症の兆候が見られるようになり、やがて全く話をしなくなり、

21歳まで促されても一つの単語を発するのが精一杯となった。

さらに彼は幼い頃から重度の免疫不全症候群を発症しており、他人と接触することができず、自宅から一歩も出たことがなかった。

ところが、少し前に初めて三つの単語で構成されている文章を口にしたのである。

「僕 ジャガーズ 好き!」。ジャガーズというのは、地元フロリダ州のアメリカンフットボールのチーム名である。…それからしばらくして、彼は母親に向かって初めて“疑問”を口にした。「僕を 好きになってくれる 人 いるのかな。」…お母さんは驚きと感動を噛み締めた。しかし、同時に胸が痛んだのである。

彼がそんな思いを抱えていたのかと思うと嬉しさと苦さが入り混じった気持ちになってしまったから。

お母さんは息子に説明して言った。「神様はあなたのこと愛しているわよ。イエス様はね、とってもあなたのことを愛しておられるのよ。亡くなったおばあちゃんだって、今はあなたの側にいなくてもあなたのことが大好きだったのよ。これからもあなたに会う人なら、きっとみんなあなたのことをみんな好きになるわよ。絶対に!」

その日の午後、お母さんは息子が口にした疑問をTwitterに投稿した。するとこのツイートは一気に拡散し、

世界中から7万件を超える「いいね!」とリツイートがされ、 1人じゃないよ!」と伝えたい想いが綴られたメッセージが届き出したのである。

デイビッドさんは7万件の反応一つ一つに返信している。その時彼は生き生きとし、

最近は沢山言葉がより出るようになり、そしてできることが徐々に増えていったのだそうだ。

それを見る彼のお母さんは今までの苦労が何もかも吹き飛ぶような喜びが湧いてきたそうだ。

  神にとって一番価値ある事は何? それは神があなたを愛しておられることを理解したあなたの顔に、笑みがこぼれるのを見ることなのである。

   あなたを形造った方、主はこう仰せられる。

   「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。

   あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。

   火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。

   わたしが、あなたの神、主。イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。

   ・・わたしの目には、あなたは高価で尊い。 わたしはあなたを愛している。 イザヤ43:1~4

   望みを抱いて喜び、患難(苦難)に耐え、絶えず(ひたすら)祈りに励みなさい。 ローマ12:12

  神はあなたを愛しておられる。またキリストは私たちを迎える為に来て下さる。動かぬ証拠が十字架とキリストの復活なのだ。 

  どうぞあなたもイエス・キリストを救い主として信じ、永久不滅の価値あるものを神様からのプレゼントとして受け取ってほしい。