2021.4.4  イースター礼拝  復活のメッセージの豊かさ!  ―マタイ28:1/ルカ24:12―

 

Ⅰ.十字架から墓場へ!

教会にとってイースターは、クリスマスと並ぶ大切な日です。イエス・キリストは、金曜日ローマ兵士によってほぼ一日がかりで

十字架で殺されました。ガリラヤから従って来た弟子たちは、「もう何もかも駄目だ!もう、何の望みもない!全てこれで終わりだ!」

…彼らは、そのように絶望していたのです。

そのイエス・キリストが十字架に磔にされて殺され墓に葬られて、三日目後の日曜日の朝復活して、弟子たちの前に現われたのです。

初め弟子たちは…キリストの復活を信じることが出来ませんでした。ですが、その後イエスの声を聞き、御身体に触れることで、真に主が復活されたことを知り、キリストを「神の子」として礼拝するようになり、こうして教会が生まれたのです。以来、キリスト教会では、キリストが復活された日曜日を「主の日/聖日」と呼び礼拝を持つようになりました。その礼拝は二千年間途絶えることなく続けられて今日に至っているのです。したがって日曜礼拝というのは、全て「復活記念礼拝」であり、その中心に位置するのが、イースターの出来事であるのです。

イエスは金曜日の朝9時に十字架にかけられました。処刑は早朝から始まっていたからです。十字架に掛けられていた時間だけでも六時間だったということです。この時、男の弟子たちは恐ろしくなり逃げていて、婦人たちだけが十字架の下に残っていました。…午後3時、イエスが息を引き取られると、エルサレムの有力者で“隠れキリシタン”であった、アリマタヤのヨセフが、総督ピラトに願い出て、イエスの遺体を引き取って自分が所有している墓に納めました。

……翌日土曜日は、ユダヤ人の“安息日”でしたので外出は禁止されていました。それで婦人たちは三日後の日曜日早朝、イエスが葬られたお墓に香料と香油とを持ってやって来ました。イエス様の遺体が葬られたのは三日前でしたからもう腐り始めているであろうご遺体についている血を奇麗に洗い清め、裂かれたお身体を整えて、きちんと葬って上げたいと願って墓まで来たのです。…ですが彼女たちは不安を感じていました。イエスが葬られたお墓は、ローマが封印した巨大な石蓋で閉じられていたのです。…それは、腐敗臭が外に漏れ出したり、動物たちが墓に侵入して遺体に損傷を与えないよう、或いは悪質な強盗団によって盗掘されないように墓を守る為のものでありました。この墓は、エルサレムの有力者アリマタヤのヨセフの墓でしたので堂々たる立派なお墓でありました。

しかし、これは、アリマタヤのヨセフが知らずにした事でしたが、彼がしたことは実は復活に関する旧約聖書の預言の成就であったのです。BC7世紀に活動した旧約の預言者イザヤはこう預言していたのです。

イザヤ53:9→「彼の墓は、悪者どもと共に、富む者と共に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。…」

イエスの遺体は立派なお墓に収められる必要があったのです。なぜでしょうか?その後の復活が目立つためにです。 

当時、犯罪者・罪人として処刑された者の死体は汚れた死体として扱われたので、 “ゴミ捨て場”として使われていた“共同墓地”に投げ込まれたのです。そんな場所に捨てられた死体に興味を持つ人など誰もいませんでした。しかしエルサレム有数の大金持ちが所有する、しかもまだ真新しい墓に葬られ、さらにローマ皇帝の“紋章入り”の封印が付いた遺体が消えたとすれば、これは一大事件です! 大富豪のヨセフがサンヘドリンの有力議員であった、ニコデモと一緒に遺体を十字架から下ろし、「富む者」のお墓に葬ったことでイエスの復活の舞台が整えられることとなったのです。

▼アリマタヤのヨセフがそこまで深読みしてイエスの遺体を自分の墓に葬った訳ではありません。しかし結果的には、イザヤのメシア預言の成就の為にヨセフは一役かったことになったのです。…何気なくやったことでも、勇気を惜しまず、少しでも神の為に…と思って行動することが素晴らしい結果を生み出すのです。色々迷いながらでも、主の為になればと行動する時、神様は、その働きを祝福されるのです。先が見えなくても、たとえ手探りのような状態であっても、「今、ここで、自分にできること」を大胆に行うとする勇気が、結果的に、期待をはるかに越えた明日を開く原動力になることを覚えたいものです。

ルカ23:56、24:1→「それから、戻って香料と香油を用意した。そして安息日には、戒めにしたがって休んだ。週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。」

合理的に考えれば、彼女たちがしようとしていた行動など殆ど意味ないことでした。墓に葬られて三日後の遺体です。中東の酷暑の中腐敗は早いのです。しかも墓は巨大な石で蓋をされてあって中には入れないのです。でも彼女たちは行かずにはおれませんでした。…ただ、それは彼女たちの優しさから生み出された行為だったのです。 神は、そのような彼女たちの、人間としての情、優しさを喜ばれました。

主は彼女たちを“最初の復活の証人”として下さったのです。

マタ28:1~8→彼女たちが墓に着くと、例のあの大きな石蓋は既に取り除かれていたのです。そして、巨大な墓石の上には稲妻のように輝く天使が座っていたのです。番兵たちも、婦人たちも驚き、また怖れました。ルカは、彼女たちが「恐ろしくなって地面に顔を伏せた」と書いています。さらに婦人たちは天使の声を聞きます。

ルカ24:6→ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられた頃、主がお話になったことを思い出しなさい。…

 

Ⅱ.主の復活とは何か?

主の復活についての四福音書の記述は様々です。ただ、復活を信じることがいかに困難であったかについては、各福音書とも共通して伝えています。マルコは主の復活を告げ知らされた婦人たちが、マルコ16:8→「震え上がり、気も動転していた(正気を失った)」 と記し、ルカは婦人たちの報告を聞いた弟子たちが、ルカ24:11→「この話はたわごとのように思われたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった」 と記します。マタイは、復活のイエスに出会った弟子たちがマタイ28:17→「疑う者たちもいた」 と語り、ヨハネは、報告を受けたペテロが遺体が消えたことの確認の為に墓に急ぎますが、ヨハネ20:9→イエスの復活を「理解していなかった(信じなかった)」 と記しています。

…復活はそれを直接目撃した人でさえ、信じがたい出来事だったのです。

 確かにキリストの復活はそれが起こったどうか客観的に証明することは出来ない事柄であり、信仰的出来事ではあります。

▼青山学院短大で「キリスト教学」の講義を担当している、荒瀬牧彦(あらせまきひこ)という牧師は、ある時復活について講義をした時の体験をこう綴っています。――「ある短大のキリスト教学の授業で、復活の講義をした。聖書の復活記事を読んで、『主はよみがえられたという叫びからすべては始まった』と話した。…自分自身の“復活信仰”を交えながら、“講義”というよりは、むしろ“説教”の調子で情熱を込めて、説得的に語ったつもりだった。…授業の後、聖書に関心を持ち、いつも良い応答をしてくれる学生がやって来て、苦笑しながら心底あきれたという口調でこう言った『…マジでこんなこと信じているんですか?』―。アテネ伝道の挫折で打ちひしがれたパウロのような気分で教室を後にした」――。

パウロのアテネ伝道の記事は使徒17章にあります。パウロがイエスの十字架と復活を語り始めると、人々は使徒17-32→「死者の復活のことを聞くと、ある人たちはあざ笑ったが、他の人たちは『そのことについては、もう一度聞くことにしよう』と言って、離れて行った」のです。『…マジでこんなこと信じているんですか?』…これが、復活についての世間一般の考え方でしょう。

「十字架と復活」はどの国においても、どの時代においても嘲笑と拒否を招きます。…にもかかわらず、教会はこの福音を語り続けるのです。それが真理であるからです。“真理”には“客観的真理”と“実存的真理”があります。客観的真理は、誰にでも理解しうる真理、科学的・実証的真理です。地球は丸い、重力がある。人間は死ぬ、…これらは誰にも異論のない客観的真理です。…それに対して、実存的真理とは――例えば、「神が私たちを創造された」、「神が私たちを生かしておられる」、「愛しておられる」…等といった主観的な真理です。…それらの真理は、信じた時、それは真理となるのです。そして「真理は人を自由にする」(ヨハネ8:32)と私たちに聖書は教えます。実際、この実存的真理は信じなくてもとりあえずは困りません。…しかし、信じる時、人生の意味が変わってきます。 ですから教会はこの復活の真理を語り続けるのです。 

▼以前、看護師さんからこんな言葉を聞いたことがあります。――「病院で、クリスチャンの方が亡くなられる時と、そうでない方が亡くなられる時とでは、何かが違うように思うんです。家族の皆さんもそうなのです。少し違うような気がするんです。なぜなんでしょう?何か不思議な力、というか安心感のようなものをはた目に感じるのです」―

クリスチャンは人間が死んだらおしまいで何にも無くなってしまう、とは考えてはいません。天国があると心から信じています。復活があると信じているのです。ですから、死はクリスチャンにとって天国への入り口なのです。確かに、二度とこの世で会えなくなることは寂しいことです。でも本人も残される家族も、天国で必ず再会することを信じているのです。ですからある方は、「お先にね」、と言って亡くなります。また、「See you again!(また会いましょう)」と言って亡くなられる方もあるのです。これが実存的真理の力です。

Ⅰコリント15:3~5でパウロは記しています。「私が最も大切なこととして私があなた方に伝えたのは、…また、聖書に書いてある通りに、三日目によみがえられたこと、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです…」

聖書はイエスの復活を客観的に観察して、それが事実であることを論証しようとはしていません。むしろ人々が全てを変えられて行った事実をのみ伝えています。

 

Ⅲ.主の復活は私たちを活かす力!

それは、何よりもイエスの弟子たちの変化に見ることができると思います。弟子たちは主の復活を知らされたことで大きく変えられたのです。彼らは平凡な人々でした。ですがこの出来事が世界史を変えていったことは純然たる事実です。イエスが十字架で死なれた時、弟子たちは逃げて蜘蛛の子を散らすようにイエスから去って行きました。日曜日の朝も、弟子たちは「家の戸に鍵をかけて閉じこもった」ままでした(ヨハネ20:19)。弟子たちはイエスを処刑した人々が、自分たちも捕えるのではないかと怖れていました。

そんな弟子たちが数週間後、神殿の広場で「あなたたちが十字架で殺したイエスは復活された。私たちがその証人だ」 と宣教を始めた(使徒3:15)のです。その後逮捕され、拷問を受けても彼らは主張を変えませんでした。弟子たちの人生を一変させる何かが起こったのです。それが「復活のイエスとの出会いだった」のです。パウロの場合もそうでした。復活信仰は、全ての人を大きく変える力があるのです。

考えて見ましょう。イエスの伝道の生涯はわずか三年間に過ぎませんでした。これは仏陀やマホメットなどとは段違いの短さです。弟子たちは他の宗教家のように、何十年に渡る特別な修行を積んだ人たちではありませんでした。イエス・キリストとはわずか三年半という短い交わりしか持っていなかったのです。ですから彼らはほとんど修行らしい修行も積んでいませんでした。そんな弟子たちが、その後世界に広がるキリスト教会の基礎を作って行ったということ自体不思議なことです。無教養で、粗野で、人間的に頼りない、ひ弱な人たちだった彼らが、幾らイエスが素晴らしい、神の人であったにせよ、わずか三年間程度で…、人はそう大きく変われるものではありません。

しかし彼らは変えられて行きました。そしてそれは、私たちにも言えるのです。クリスマスの挨拶ことばは「メリー・クリスマス」ですが、イースターの挨拶は、「ハッピー・イースター」です。どうしてハッピーなのでしょう?「幸せ」を意味する「ハッピー」という言葉は「ハプン」から来ているそうです。「ハプニング」などと言いますが、「不思議な出来事」「偶然の出来事」みたいなニュアンスでしょうか。まさに彼らに起こったことがそうでした。しかし全員にそれは起こったことですから、その変化は偶然の変化ではなかったのです。弟子たちはキリストの復活の力を戴き、偉大な力をまとうことができたのです。そしてこの力はキリストの復活に出会う者なら、誰にでも与えられるのです。もちろん私も、そしてあなたも、です。

 

●――“サバン症候群”の人から教えられること――●

▼復活とは関係ない話ですが、一つの例をお話しましょう。以前、私は、“サバン症候群”を取り上げたテレビ番組を見ました。“サバン”というのはフランス語で“賢人”とか“天才”という意味です。“サバン症候群”とは、ごく特定の分野に限って、普通の人には及びもつかない超人的な能力を発揮する症状を言います。その代表的な人物に、アメリカユタ州に住んでいた、キム・ピークという人がいました。映画“レインマン”のモデルとなった人です。彼は生後18ヶ月目から、本を読み始めるのですが、1ページ当たり8秒ほど眺めてはペラペラとめくって正確に覚えていくのです。分厚い電話帳の住所、氏名、電話番号も、あっという間に全部正確に記憶してしまうのです。58歳で亡くなるまで、暗記した本の数が1万冊を突破したのだそうです。彼はアメリカのどこでも即ガイドになれたでしょう。というのは、全米のあらゆる町の地図をくまなく覚えてしまっていたからです。西暦3000年分の何月何日が何曜日であるかを全部言い当てることが出来たのです。

また、レスリー・レムケという人は両方の眼球が無く何も見えず、発達障害と脳性麻痺のある方でした。14才の時でした。数時間前にテレビで初めて聞いたチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番をよどみなく、完璧に弾き始め、弾きこなしてしまったのです。驚くべきことに、彼はそれまでピアノのレッスンを一度も受けたことはありませんでしたし、その後も一度も受けていません。しかし全米はおろか、海外のコンサートに多数出演し、何千曲を演奏し、歌い続けたのです。…こういった人たちの脳の一部には障害があります。しかしその脳の障害がこれらの才能を表していると考えられています。よく、右脳は“芸術脳”、左脳は“論理脳”と言われていて、普通はこの両方の脳が協力し合いながら活動します。ところが“サバン症候群”では、論理の左脳が働きません。左脳の抑制力が効かないことで、右脳が自由に発達して超人的な能力が得られたのではないかと推測されています。つまり、脳の活動には衰えはないと言うのです。

私はそのレポートを見ながら人間は、自分が思っているよりも遙かにすごいものとして、神に造られているのだと思いました。サバン症候群の人たちが活用しているのは、脳のごく一部です。また、左脳はほとんど用いられていないようです。つまり、人間の脳はほとんど使われないままになっているのです。いや、80年という人生の時間では、使い切れないほどの性能、キャパシティーがあるというのが、私たちの脳なのです。人類の中で未だかつて脳を完全に使い切ったという人間は、誰もいません。使い切るには80年、90年というのは、短過ぎます。つまり人間は始めからこんな短い寿命に生きるように造られていたのではなく、永遠に生きるように設計されていた“痕跡”とも言えるのです。

 

▼ロシアの小説家ドストエフスキーは、若い頃に社会主義の影響を受けて、革命運動に参加し、逮捕され、シベリアへ流刑になりました。流刑地で読むことを許されていた書籍は聖書のみで、彼は4年間の獄中生活の中で、特に福音書を繰り返し読むのです。そしてある時、2000年前に書かれた聖書の出来事が、「今ここにある」出来事として甦り、時空を超えてイエスに出会う体験をするのです。そして聖書を通して人生の意味がはっきりと見え始め、それを作品として発表し、その作品は多くの人々に人生を変えるほどの衝撃を与えるようになります。「罪と罰」、「白痴」、「悪霊」、「カラマーゾフの兄弟」等の名作が生まれた背景にあるのは彼のこの“復活体験”だと言われています。流刑地での神との出会いが無ければ、彼の作品は生まれず、彼の作品を通して信仰に導かれる人もいなかったでしょう。神は、シベリア流刑という不幸な出来事を通して、ドストエフスキーを祝福されたのです。

キリストの復活を信じる時、人生の意味が変わってきます。キリストは十字架上で権力者によって殺されました。しかし、神はそのイエスを「死人の中から起こされた」、神は悪をそのままには放置されないことを、私たちは復活を通して知らされます。ですから私たちは悪に屈服しません。どのような困難があっても、神が共にいて下さるゆえに、私たちは絶望しません。神が必ず道を開いて下さることを信じるからです。私たちが復活を信じるということは、この世界が究極的には、「神の支配される良き世界」であることを信じることです。その信仰が希望をもたらし、希望は私たちに行動をもたらします。復活信仰は人間に生きる力を与え、人を「幸せな人生」ではなく、「意味のある人生」に導くのです。 イエス・キリストはあるとき、こう言われました。

 「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていて

わたしを信じる者はみな、永遠に死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか?」  ヨハネ11-2526

 日本人の多くの方は人間、死んだら終わり、と思っています。でも本当に終わりなのでしょうか。聖書は、そうではない、天国があるといいます。どちらが正しいのでしょうか。

 

 夏のオリンピック競技の花の一つはマラソンでしょう。やっと走り切ってゴールのテープを切った瞬間、もし、何もなくなり消滅するなら、その人は一体、何のために走るのでしょうか。テープの向こうに栄冠があり、またそこで親しい人たちが出迎え、待ち構えてくれているからこそ、長く苦しい道のりを走りきる意味と喜びがあるのではないでしょうか。もちろん走り切るプロセスは大切です。でも、プロセスは目的になるわけではありません。もし、ゴールのテープを切る瞬間に自分が消滅するなら、ゴールは目指すべきものではなく、ただの恐怖の瞬間でしかないはずです。消滅する瞬間が近づけば近づく程憂鬱になるのではありませんか?そしてゴールは悲しみに打ちひしがれる瞬間になってしまうのではありませんか?人生とはそんなものなのでしょうか?わたしは両手を挙げて喜んでそのゴールを走り抜けたいと思います。

 

死に勝つ者は誰もいません。未だ死を征服した者はいません。

しかし聖書は教えています。「死に勝つ者とは誰か。イエスを神の御子と信じる者ではないか!」と。

死はキリストに呑み込まれた。詩よ、お前の勝利はどこにあるのか。  Ⅰコリント15:54~55

世界を変え、何十億の人たちに死の向こうにある希望を示し続けたイエスの言葉に、耳を傾けましょう。神のことばを信じましょう。素直に従いましょう。その時、あなたは死んでも生きる力を神から戴くことができるのです!

 

 

 

 

 

 

 

2021.3.28  オルナンの打ち場…考  Ⅰ歴代21:14~30/Ⅱサム24:15~25

 


 .「オルナンの打ち場」とダビデ王!

「オルナン」とは、人の名前で、ヘブル語で「喜びの声を上げる」というような意味を持っています。「打ち場」とは日本で言えば「脱穀場」、「精米所」のような場所で、オルナンはここの主だったと考えられます。やがてダビデはこの打ち場をオルナンから譲り受け、

「主の祭壇」を築くⅠ歴代22:1のですが、その後この場所は、BC950年、ソロモンによって「エルサレムの神殿」→(歴代3:1)が建つことになるのです。まさしくこの脱穀場はオルナンにとっても、ダビデにとっても、イスラエルにとっても、「喜びの声を上げる」

ふさわしい場所に変えられて行ったのです。

   I歴代21:2~7には、ダビデが人口調査の罪について記され、神からの厳しい“災い”がエルサレムに臨んだという出来事が記されていま

  す。この人口調査、何が悪かったのでしょう?  イスラエルの歴史の中では、モーセの時代、すでに人口調査は行われていたはずで、

「民数記」という書名自体、モーセによる人口調査から取られた書名だったくらいです。…では何が悪かったのでしょうか?

  …理由は、モーセの時の人口調査は、神からの命によるものでした。しかし、今回のダビデによるものは、“サタンのそそのかし”によるもの

  だったと、I歴代21:1~2は記しています。ダビデ自身も21:2→でこう言っています。「…その人数を私が知るためだ」と…。

  この言葉から、この人口調査が、神にではなく自分の利益の為、自分の栄光の為に行ったものであることが判るのです。

  サタンはダビデの弱点をよく知っており彼を強くそそのかしたのです。この人口調査は徴兵制を導入したり、

  国民に膨大な税金を課す政策のためであり、ダビデによる王制を盤石なものにしようとするものでした。

  そして人材、軍事力、財力をたっぷり蓄え王として君臨し、それらの資源を、後継者ソロモンに引き継がせようとしたのです。

  それは、かつての神のみに信頼したダビデの信仰とは遠くかけ離れた考え方であって、不信仰に満ちたものでありました。

  神はそんなダビデに対してはなはだ怒られました。

21:7→「この命令は、神の目に悪しきことであった。神はイスラエルを打たれた」

  神の怒りを買ったダビデは、先見者ガドを通して三つの選択肢を提示されます。21:9~13→どうせなら神の手に落ちた方が潔いと

  彼は考えたようですが、神の審きは思いもよらず激しく、三日間の“疫病”で21:14→「…七万人が倒れ」たのでした。

  ダビデは神の審きを甘く見ていたのです。

 

――武漢の新型コロナウイルス騒動――

  ▼ 中国宣教レポートによると、一昨年、新型コロナウイルス発生の地となった“武漢”は2019年、キリスト教会への迫害が国内でも最もひど

  く、48あった“地下教会”が当局によって全滅させられた地域でした。武漢は“中国宗教規制政策”の模範地指定とされていた場所だったのです。

  2019年末には、全ての地下キリスト教宣教師は強制追放、拘束され、生存不明の人も多いのです。…しかし、今回のコロナ騒ぎで宗教規制を

  実行する部門の最高幹部であった人が怪死を遂げたと言われています。ウイルスにやられたのかも知れません。不思議なことです。

     あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。 詩編91:8

 しかし逆の場合があるのです。オルナンがそうでした。彼は審きの渦中でしっかり御使いによって守られていたのです。→詩91:3~15

21:21→ダビデがこの打打ち場に来た時、オルナンはダビデの前にひれ伏しました。彼は信仰深いだけでなく、誠実で、真摯な人だった

ようです。いつでも、主に全てを捧げる心備えを持った人でした。ゆえに彼は神にも御使いにもダビデにも深く愛され、守られたのです。

…今、コロナ禍にあって、私たちは「非常事態宣言」という言葉を頻繁に聞いていますが、オルナンと息子たちは、まさにこのような

「非常事態、異常事態」の中にあって、神によって守られていたのです。→マラキ4:1~2

 

  .「オルナンの打ち場」と御使い!

 この一連の出来事を通して、幾つか霊的教訓を考えて見たいと思います。この21章には、14/15/16/18/20など他の聖書箇所以上

 に、「御使い」の活躍が描かれていることです。新約聖書の黙示録にも“御使い”の大活躍が語られていますが、その描かれ方に少し似て

 います。黙示録は終末の時代に滅ぼす御使いが活躍するのですが、この21章に登場する御使いも“滅びの御使い”です。

 私たちは御使いの存在をどれくらい意識して生活しているでしょうか?…オルナンはこの時、災いの中心地に身を置いていましたが、

 家族は害を受けることもなく、仕事をし続けることが出来ていたのです。なぜなら災いが“神から遣わされた”滅びの御使い“によるものだった

 からです。彼は守られたのです。(21:15~16)

 このことは、いかに終末時代が来ようとも真の神の民は守られることを私たちに教えてくれているのです。

 

 ――打ち場(審き)――

 …もう一つ、オルナンの「打ち場」ということばも注目したい言葉です。「打ち場」とは、収穫した麦を叩いて、麦”と“殻”とを仕分ける場所

 です。聖書の中で、「打ち場」、“審き”と関連して述べられている場合が多いのです(マタイ3:12)。この「オルナンの打ち場」

 「神の審き」を意味していると理解することが出来るのです。このオルナンの打ち場を、天使たちが審きを行う作戦本部として用いたのです。

 

 ――キリストの十字架とダビデ王のとりなし――

 Ⅰ歴代21:16~18でダビデは民を滅ぼす御使いにとりなしを願っています。王は自分の金を払い、代価を払って災いの場所、

 「オルナンの打ち場」を買い取りました。これは真の王である主イエスキリストの十字架と執り成しの予型です。

 まさにそれはご自分の命の犠牲、流した血の代価で民を買い取って(贖って)下さったキリストに通じるものがあります。


   
ダビデは、そこに主のために祭壇を築き、全焼のささげものと交わりのいけにえを捧げ、主を呼んだ。

   主は、全焼の捧げものの祭壇の上に天から火を下し、彼に答えられた。

       主が御使いに命じられたので、御使いは剣をさやに収めた。 歴代21:26~27

 

  ――モリヤの山――

     ソロモンは、エルサレムのモリヤ山で主の家の建設を始めた。そこは、主が父ダビデにご自分を現わされ、ダビデが準備していた場所で、

     エブス人オルナンの打ち場があったところである。」 歴代3:1


  ソロモンによるエルサレム神殿、神の家はモリヤ山上に建てられることが記されています。「モリヤの山」とは、

  あのアブラハムが大切な一人子、イサクを捧げた場所です。そしてアブラハムが息子イサクを捧げたのは、

  父なる神がひとり子イエス・キリストの命を捧げた型だったのです。つまり「モリヤの地」とは、イエス・キリストが十字架に

  お架かり下さった場所であることが暗示されているのです。

 

      神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。

      そしてわたしがあなたに告げる一つの山の上で、 彼を全焼のいけにえとして捧げなさい。 創22:2

 

  ▼ 結論として言えばこういうことです。アブラハムがイサクを捧げようとした「モリヤの地」は「オルナンの打ち場」であり、

  「主の宮」であり、「エルサレムの神殿」であり、「キリストの十字架」であり、「神の教会」である、と全てが直線的に結ばれているのです。

  さらに教会は「復活の主に出会う場所」となることが暗示されているのです。再臨のキリストはオリーブ山に来臨されると記されているから

  です。そういう意味でこの「オルナンの打場」は、非常に重要な霊的な意味と教えを持っている場所であるわけです。

 

.「オルナンの打ち場」と終末時代の教会!

  このようにしてダビデの時にエルサレムに臨んだ災いは“オルナンの打ち場”で留められ、その場所に神殿が築かれることになったのです

  が、この後残念ながら主イエスの預言どおり→ルカ19:41~44、神殿は破壊されてしまいます。

  そしてイエスの十字架の40年後、西暦70年にエルサレムはローマにより滅ぼされました。この時にはオルナンの打ち場で活躍した

 「滅ぼす御使い」は現れませんでした。なぜでしょう。破壊が主イエスによってが預言されていたことだったからです。

  エルサレムの町には激しい災いが臨み、住民の最後の一人まで殺され、神の家である神殿もまたローマにより徹底的に破壊されて

  しまったのでした。エルサレムがこのような災いにあった理由は明確です。

  父なる神が犠牲を払って送って下さった一人子イエスを彼らが拒絶し、殺した為です。贖いも神との平和も崩壊してしまったのです。

  

  ――神の宮、教会の崩壊――

  オルナンの日は終末時代に生きる私たちに対しても警告を発しています。終りの日、災害を留まらせていた防波堤のような役割を

  果たしていた神の教会が堕落し、崩壊し、土台石の一つも残されない状況になるというのです。主はマタイ24章で終末の日に関連して

  宮、そして神殿の崩壊を語られました。この預言は二重写しのように二段階で成就します。すなわち最初の成就は、西暦70年の

  ローマによるエルサレム崩壊の日、そして二度目の成就は終末の日であり、その日神の家であり祈りの宮であるべき教会が崩壊します。
 
それは物理的な崩壊ではなく、祈りの宮、神やキリストを拝する場所としての神殿であるべき教会が本質的に、教理的に崩壊し、

  背教する日を預言しているのです。

 

  使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石(礎石) です。

  このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。

  あなた方も、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。 エペソ2:20~22

 

  どんな手段によっても、誰にも騙されてはいけません。まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、

  主の日は来ないのです。 テサロニケ2:3

 

 このようにして終末の日の教会はその土台の教理も教えも崩壊するようになるのです。しかしオルナンを守られた

「抜身の剣持ったキリスト(復活のキリスト))が真の教会の真中に立って守って下さるのです。

 私たちは軍勢の将である救い主イエス、また遣わされた御使いたちによって守られていることを覚えなければなりません。

 私たちは終末の日が遠くないことを今日の世相から知ることができます。

 堅く立って動かされることなくいつも主のわざに励んで歩みたいと思います。

 

 

  これは今、天上にある支配と権威に、教会を通して神の極めて豊かな知恵が知らされる為であり、

  私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた、永遠のご計画によるものです。私たちはこのキリストにあって、

  キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができます。 エペソ2:10~12

 

 

2021..28 青銅の蛇!  民数記 21:1~35 ―

 

. さばきとしての燃える蛇! 民数記 21-16

▼民数記21章には新世代となったイスラエルの民、ネオ・イスラエルの荒野における“最後の旅”の顛末が記されています。

新生イスラエルの民の旅は一見、カナン人との戦いで初勝利を得る順調な出だしに見えました。

人々は、――「いよいよだ!夢にまで見た、約束の地カナンの地が目前だ!」――そう思ったことでしょう。

…ところが喜びも束の間、彼らはホル山から北上するのではなく、エドムの地を大きく迂回して南に下り始めたのです。2014214

▼結局、イスラエルは、カナンの南、ホルマの地まで戻ることになってしまったのです。このホルマとは、遥か南部のアラバの海辺の地域を指していました。実はこのホルマは、あの十二人の斥候の報告により、イスラエルの民が不信仰に陥って以後38年間に渡る、

荒野での放浪が決定してしまった場所でした。 142830353744

38年前のあの日、このホルマでイスラエルは主の御心に逆らい、勝手にカナンへ攻め込んで行こうとして、

返り討ちに遭い、敗走して戻って来た因縁の場所だったのです。 民14:34~45

民はホルマへの途上、耐えられなくなり、神とモーセに逆らってつぶやき、不平を吐いたのです。 

「なぜ、あなた方は我々をエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。

我々はこのみじめな食物に飽き飽きしている。」 21:5

確かに、新生イスラエルが、“エドム”を迂回して荒野を旅するその道は、再度、危険な荒野と砂漠を南下しなければならず、

困難を極めたに違いありません…。しかも迂回し、引き返す旅程の総距離は相当なものでした。

彼らはあと一歩で約束の地カナンに入れる“入口”にまで来ていたのです。人々は、「ようやく、頑張って、みんなでここまで来たんだ。

…それなのに何だ今更「ホルマまで引き返せ!だって…、そりゃあんまりだ…!」

●――不平を言うイスラエル――●

▼人は我慢ができなくなった時、貯め込んで来た思いが一挙に噴出してしまうものです。…ですが彼らは文句を言う相手を間違えていました。

非難すべき相手はエドムの王に対してだったはずです。…にも拘わらず、ネオ・イスラエルは、口々に神様とモーセをののしり叫んだのです。

ちなみに、「飽き飽きしている」と訳された原文は「私たちのネフェシュが嫌悪する」という文章です。ネフェシュとは、「魂の奥底から」と言う

意味です。ですから、彼らはこの時「心の底から」、言葉を変えれば「自分たちは、全身全霊をもって神を嫌悪する!」と叫んだのです。

さらに「このみじめな食物」とは、神が自分たちに与えて下さった「マナ」を指していました。

「マナ」はこれまで“荒野の食物”として神様が彼らを養うために与えて下さった“恵みの食物”でした。出16:31には、マナの味について、

「…コエンドロの種のようで、白く、その味は蜜を入れた薄焼きパンのようであった。」とあり、この民数11:8にも

「油で揚げた(クリーム)菓子のような味」と記されています。それを「…みじめな食物」「…粗悪な食物」(口語訳)と口々にののしったのです。

  私たちは考えなければなりません。神は必要な物を私たちに与えられる。しかしそれは必要な限りであって、最低限のものなのだ。

  それ以上のものを欲しがる時、そこに貪りが生じるということを…。また私たちはすぐに神の恵みを忘れやすい者であるということ、

  そして忘恩は大罪であるということを…です。

パウロはこの話をコリント書で展開し、不平を言い続ける者は神により滅ぼされると警告しています。

  「また、私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、キリストを試みることのないようにしましょう。彼らは蛇によって滅んで行きました。

  また、彼らのうちのある人たちがしたように、不平を言ってはいけません。彼らは滅ぼす者によって滅ぼされました。」 Ⅰコリント10:9~10

●――強烈な神の反応とその理由――●

▼6節を見ると神の反応は厳しいものでした。「そこで主は民の中に燃える蛇を送られた」とある通りです。

 蛇は民に噛みつき、イスラエルの多くの人々が死にました。「燃える」と訳された「サーラーフ」は、“火のように熱い痛み”を表すことばです。

 この、火のような熱い痛みを与える毒を持った蛇(*蛇は複数形で書かれているので、何匹もうじゃうじやしていたのだろう)に襲われて

 多くの民が死んだのです。

パレスチナの荒野や砂漠にはこのような危険な動物は蛇以外にも沢山潜んでいたはずです。…なのに、今まで彼らを神様は邪悪で危険な

動物たちから守って下さっていたのです。…私には、そちらの事実の方が実ははるかに不思議なことだったように思われるのですが…。

食べ物に対する民のつぶやきに対して神がこれほどに怒られたのには理由がありました。

 「マナ」はやがて神から与えられる「天からのマナ」の予型だったからです。「天からのマナ」とは、

 神の口から出る聖書のことばと言えますし、またその言葉を語る為に来られた神の御子ご自身とも言えたからです。

もし私たちも神が語られる聖書のことばに対して、“粗悪”で“飽き飽きした”ものだとつぶやき続けるなら、

それは“霊的ないのち取り”になりかねないことを覚える必要があります。

神のことばである聖書は尽きることのない霊的源泉です。私たちの魂を満ち足らせる素晴らしい福音を感謝して受け取り、その豊かな味わいを

味わうことがなければ、“霊的飢饉”を自ら招き、魂に痛みをもたらすことになるということを、この出来事は警告していると言えるのです。

 

. 救いの手段としての青銅の蛇!  民21-79

神の刑罰から来る激しい痛みを経験した人々は、モーセのところに来て、罪を悔い改めて、救いを求めました。

「私たちは主とあなたを非難したりして、罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去って下さるよう主に祈って下さい。」 民21:7

逆説的に見れば、罪による痛みの経験は再び神に近づくことのできるしるしでもあるのです。痛みを伴わない救いは真の救いとは

なり得ません。誰でも罪を犯し、また失敗をします。自分の罪を認めることは痛みを伴いますが、神に立ち返る機会ともなるのです。

イスラエルの民がこのとき経験した痛みは激しいものでした。…ではなぜこれほどの痛みが彼らに必要だったのでしょうか?

…それは、彼らが悔い改め、同じ罪を犯す事がないための神の恵みもでありました。

モーセが彼らの為に祈ると、主は救済の手段をモーセに教えました。

8→「…あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば、生きる。」

これが神の救済方法でありました。モーセは命じられた通りにしました。すると、蛇が人をかんでも、

その人がこの“青銅の蛇”を仰ぎ見ると生きたのでした…。

▼…それにしても、どうしてこんな面倒くさい指示を神様は示されたのでしょうか?こんな方法をとらなくても、

「蛇よ、去れ!噛まれた者は癒されよ!」の一声で充分だったのではありませんか? これには何かの意味が込められているはずです。

 これは青銅の蛇自体に救いの力があったということではなく、神の約束を信じてこれを仰ぎ見た者だけが、死の毒を免れて救われることが

 できるという約束にありました。そう、これはやがて地上に来られて十字架の上で死んで下さるキリストを指していました。

後にイエス様はニコデモに対して語られました。

モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、

人の子にあって永遠のいのちを持つためです。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。  ヨハネ31416

「人の子が上げられる」、というのは、「十字架につけられる」ことを表しています。イエス様は、モーセが荒野で上げた青銅の蛇は、

ご自分が張り付けられる十字架であることを知っておられたのです。

●――祭壇は青銅で作られた――●

ではなぜ蛇が上げられなければならなかったのでしょう? 聖書において、蛇は罪と呪いの象徴的動物です。

 蛇が彼らに死をもたらした事実に注目しましょう。エバを惑わしたのも蛇でした(創3:1)。また、黙示12:9によると、蛇は悪魔であったことが

 分かります。そして主は蛇に対してその子孫のかしらが、女の子孫によって打ち砕かれると約束されました(創3:15)

 …蛇の子孫は女の子孫のかかとをかみつくが、女の子孫は蛇の頭を打ち砕きます。それが十字架と復活でキリストが成されたことでした。

 そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、

 すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷として繋がれていた人々を解放するためでした。 ヘブル21415

つまり蛇が死をもたらしたのは、罪が死をもたらしたと言い換えることができるのです。そして青銅で蛇を作りなさいというのは、その罪に対する神の審きを表していたのです。ちなみに、当時の神の宮の祭壇は青銅で作られており、青銅の祭壇で罪のためのいけにえが焼かれました。それは、“罪に対する神の裁き”、つまり、罪が裁かれたことを表していたのです。しかもそれが、旗ざおという木の上で裁かれたのです。キリストは十字架にかけられ、“青銅の蛇”となって、全人類の罪の呪いと審きをその身に負われたのです。そのキリストを仰ぎ見る者が救われるのです。

 

モーセが人々の救いの為に、“青銅の燃える蛇”を作り、それを“旗ざお”の上につけ、それを仰ぎ見た者が救われたように、

人の子もまた上げられなければなりません。その理由は、「(十字架のキリスト)を信じる者(仰ぎ見る)がみな、人の子にあって永遠のいのちを

持つためです」ヨハネ3-15と語っているからです。…不思議なことですが、蛇が人々に救いをもたらしたように、

人々の罪の身代わりとして木の上で、神の呪いを受けた御子イエスは、同時に、私たちを救うものとなられたのです。

このように「青銅の燃える蛇」とは、神の怒りと同時に、神の愛のしるしとなり、十字架のキリストの模型であったのです。

蛇はサタンの象徴であり、サタンは全人類に罪という毒を導入し、その影響を受けているアダムの子孫は、死ぬしかない存在でありました。

木にかけられた者は、呪われた者となる (申21:22~13→ガラ3:13) が、サタンの象徴である蛇は、荒野で木にかけられ、呪われたものとなり、それを仰ぎ見た荒野の民の蛇の毒は、無効化されたのです。同じように、全人類は、「罪そのもの」(Ⅱコリ5:21)とされて罰されたキリストを仰ぎ見、信じる事によって、罪という毒は無効化され、いのちを得たのでした。キリストの十字架を仰ぎ見て信じる以外に、救いはないのです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。  ヨハネ3:1618

イエス・キリストは、十字架の苦しみの断末魔の中で、どうなさったでしょうか?ただ歯を食いしばって黙っていたのではありません。キリストは

祈られたのです。あなたのために、祈られたのです。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」

神にとりなして下さったのです。この祈りに応えて神はあなたの罪を全て赦して下さいました。それはキリストのいのちの償いの故です。

  ●――復活の希望を予兆――●

▼上げられた青銅の蛇のおかげで、死にかけていた彼らは生きることができたのでした。これは復活の希望を予兆しています。あなたを造られた父なる神はあなたに単なる長生きではなく、永遠のいのちを持って欲しいと願われました。

わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。

 ヨハネ6-40

このキリストの償いを受け入れた証拠として、神はイエス・キリストを、死後三日目に復活させなさったのです。死からの復活の希望、

これこそは人類に与えられた最も大きな希望だと思います。

 

. それからのイスラエル…!  民数21-10

民数21:10節以降には、青銅の蛇を仰ぎ見て生きた者たちが、北へと進軍して行くという輝かしい記録が記されています。

それは本当に輝かしい記録です。彼らは谷川のほとりに宿営し、また冷たい井戸のあるところを進みました。

そしてイスラエルの民は、16~17→「井戸よ、湧きいでよ。…」と歌ったのです。

彼らはアモリ人の王シホンとバシャンの王オグとの戦いに勝利し、その地を占領したのです。(民212325

約束の地に向かっていく新しい世代の者たちが少しずつ整えられていくのをここに見ることができます。

これは彼らが“旗ざお”に上げられた青銅の蛇を仰ぎ見て、生きたことのあかしでした。

▼ここで、神が仰せられていることは、「蛇にかまれない」ではなく、「蛇にかまれる」、でも旗竿の蛇を「仰ぎ見れば生きる」でした。私たちの信仰     の旅路もそうです。苦難の中に置かれ、神への信頼を失い、暗闇の中を、罪の中を、怖れや不安の中を歩むことがあります。神から引き離す

サタンの誘惑や攻撃があります。そこで神から離れた歩みをしてしまう時があります。その中で、主イエス・キリストの十字架を仰ぎ見るならば、

いいえ、仰ぎ見るだけで、神は私たちの主への信頼を再び回復させ、主との交わりの中に入れ直して下さいます。なぜなら主イエス・キリストが

神に裁かれ、のろわれた者となられ、罪と死に打ち勝ち復活されたからです。悪の力、サタンの力に勝利されたからです。

信仰の旅路は、そうやって主イエス・キリストの十字架を仰ぎ見、神への信頼を回復させていただく歩みの繰り返しです。

21章の後半では、敵との戦いが本格的に始まり、勝利が与えられていきます。この勝利は私たちにとっての宣教の勝利を象徴しています。悔い改めて、神との親しい交わりの中で生きる時、サタンとの戦いに勝利する日々を生きることができます。今週も委ねられた務めがあります。計画されている働きがあります。仕える忍耐の歩みがあります。多忙の中に置かれます。しかし、十字架の主イエスを仰ぎ見ることで、神との交わりが回復し、死んでいた魂が生き返り、一つひとつの務め、一つひとつ戦いに私たちは勝利を得ていくことができるのです。

 

 

 

 

 

 

 

2021.1.31 嵐を静め、悪霊を追い出すキリスト… ルカ8:22~39―

 

世界はなかなかコロナ禍から抜け出せずにいます。“医療崩壊”が始まっているとの報道、新種のウイルス感染者、死者数の増加、、、

近く、ワクチン接種が始まると言われていますが、“夜明け”はまだ遠いように感じます。

“不安”は新型コロナに留まりません。TVの報道によると今のままで行けば、10年後の2030年には地球の平均気温は“臨界点”に達して温暖化は加速し、平均気温は4度以上も上昇、アジアでは“夏のオリンピック”を始めとした“スポーツ・イベント”は、屋外ではできなくなるそうです。

8月・9月の“猛暑期間日数”は、今の倍以上になり、夏は外出自粛となります。北極や南極の氷が解け、海水温は上昇し、海鮮寿司なども姿を消す…すでに過去100年間で世界の平均海水面は16センチも上昇していて、これからは増々高くなるというのです。シベリアの凍土が溶け、

過去の時代封じ込められていた膨大な量のウイルスやメタンガスが発生し、人類は存亡の危機を迎えるというのです。

また毎夏の大型台風による“大雨洪水警戒警報”の発令、火山の爆発や、大地震、、、人に災いをもたらす“闇の力”は、私たちのすぐそばに、近づいています。…今や、私たちが生きるこの世界、“不安の材料”にこと欠くことはありません。

 

I. 嵐を静められる、イエス・キリストと共に!

▼さて、聖書のお話に入りましょう。――ヨルダン渓谷に位置するガリラヤ湖は、南北21km、東西13kmからなる淡水湖です。湖面は海抜マイナス210メートルの低さにあって、険しい岩山に囲まれた湖です。この特殊な地形の為、時に、夜になると“周囲の山々から”吹きおろしの激しい風”が降りて来ます。 …そんな日の、“夕暮れ時”主は弟子たちにルカ8:22→「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたのです。

一日の厳しい伝道活動を終えて後、東への舟旅…ゲラサ人の地までは、南東方面約14キロ、時間にして約一時間半位の舟旅でした。

疲れておられたイエス様は、この小さな漁船の中で「ぐっすりと眠ってしまわれた」(8:23)のです。

▼この箇所を通して、お疲れになることがあったイエス様に慰められるのです。イエス様は本当に疲れておられました。私たちはしばしば、「ああ疲れた、疲れた。しんどいなー。眠くてたまらない。もう明日仕事行きたくない!」…そんな時ありませんか?イエス様のこの時の“熟睡度”…相当高かったのです…。

▼W・バークレーという聖書注解者は、この箇所をこう描き記しています。

「ルカはこの物語を…生き生きと描いている。…イエスが湖を渡ることにしたのは、疑いなく、休息を必要としたからである。…漕ぎ始めて程なくイエスは眠りに落ちた。…イエスの眠っている姿を想像するのは何と心楽しいことだろう。…我々と全く同じように彼も疲れを覚えられたのだ。 彼もまた“消耗の域”に達し、この時“激しい睡魔”に襲われていた。 彼は弟子たちを信頼していた。彼らはこの湖の“漁師”だったからである。」

…彼(キリスト)は主の前に、ひこばえ(孫生え)のように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼は蔑(うと)まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。…」 イザヤ5313 

これが人となって下さったイエス・キリストの生身の姿です。イザヤのこの言葉にほっとしませんか?

▼…さて、そんなイエス様が休んでおられた舟に危機が訪れます。…舟を転覆させる程の強い「突風が湖に吹きおろし」て来て、彼らを危険に陥れたからです。舟の浸水が始まりました。…たまらず弟子たちは、「…眠っておられるイエス様を起こして、「先生、先生(ヘブル語では『ラビ』)」と呼びかけ、私たちはおぼれて死にそうです」と激しく訴えました。マルコは更に強い口調でこの部分を記しています。マルコ4:38→「先生、私たちが死んでもかまわないのですか!」マタイ8:25→「主よ、助けて下さい。私たちは死んでしまいます。」と…。

弟子はみな元漁師でした。彼らはこの湖で何十年も生きて来て、ガリラヤ湖について、その知識も豊富だったはずです。…そんな彼らが怯え、慌てふためいているのです。これは、この時の“突風”がいかに激しいものだったかを示しています。 

▼私たちには人生が制御できない時があります。コロナのこと、仕事のこと、経済的なこと、これからのこと、いのちのこと…考えれば考える程、不安になる時があるのではないでしょうか?…しかし、そのような夜にもイエス様が熟睡されていたのです。これは慰めではありませんか?

考えると、このイエス様の“爆睡”はこの嵐が“制御不能”なものではなかったことを示しています。イエス様はこの激しい嵐にあっても、万事を益として下さる父なる神の愛の御手の中にあることをご存知でした。ですから私たちは眠りにつく前に、「主よ。この夜、私をお守り下さい。私の体、私のたましい、…私の全てのものをあなたの御手にお委ねします。…絶対的にあなたを信頼する力をお与え下さい!」そう祈る必要があるのです。

 「…しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」 マタイ1029

イエス様は起き上がると、8:24→「…風と荒波とをしかりつけ」ました。すると「風が波も収まり、波も収まり、凪が訪れた…」のです。

興味深いのは、イエス様が直接的に「風と荒波」を叱りつけられたことです。まるで人間に対するかのように。

これはマルコ1:25→「黙れ。この人から出て行け!」と悪霊に叫ばれたのと同じです。イエス様は全ての世界、次元にあって、

全ての支配者であるということが判ります。

その上でイエスは弟子たちに、「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」(8:25)と言われました。

▼イギリスが誇る“タイタニック号”は、かつて“絶対に沈まない船”と言われていました。でも、映画の中で、「鉄は沈むものだ…」と乗客に言わせていたのは印象的でした。確かにどんな舟でも沈む可能性があるのです。この木造船の場合は、なおのことでした。しかしながら舟には、神の御子イエスが一緒に乗って下さっていました。イエス様と同船している舟が沈むことなどあり得ません。そのことを私たちは信じ、疑ってはなりません。弟子たちは助かりました。彼らがイエス様にすがったからです。 彼らはこの出来事”を通して、イエス様が単なる律法の教師ではなく、

8:25→「…風も水も、お命じになれば従」わせる“真の権威者”であることを知りました。

世に勝つ者とは誰でしょう。イエスを神の子と信じる者ではありませんか!  Ⅰヨハネ5:5

あなた方は心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。  ヨハネ14:1

イエス様は弟子たちに信仰心があることは認めておられたのです。しかし主は彼らに言われました。ルカ8:25→「あなた方の信仰はどこにあるのです」。マタイの福音書ではこうあります。マタイ8:26→「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち」マルコ4:40では→「どうして怖がるのですか、まだ信仰がないのですか。」

私たちに対しても主は同じように言われています。私たちの信仰は余りにも弱いのでは?薄いのではないでしょうか?いったいどこに信仰があると言うのでしょう?イエス様と一緒に生かされているのに…。いつも、私たちの傍らに、私たちのためにいのちを捨て、よみがえられたイエス様が共におられるのですから、どんな“人生の嵐”に直面しようとも、私たちは何ものをも恐れる必要はないのです。堅く信仰に立って歩みましょう。

「見よ。私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいます。」マタイ2820

 

II. 悪霊を退かせるキリストと共に!

一行はゲラサ人の地に着きました。ここの人々は“まことの神”を知らない異邦の人たちでした。

さて陸に上がるとすぐに“悪霊に憑かれている男たち”と出会いました。マタイ8:28「悪霊に憑かれた人が二人」とあります。

墓場には、実は二人の狂人が繋がれていたのです。マルコとルカは、このうちの一人にスポットを当てて記しています。

27→「彼は、長い間、服を身に着けず、家に住まないで、墓場に住んでいた」のです。彼は、完全に悪霊の支配下に置かれ、“人間としての感覚”を失い、“人”として扱われず、捨てられて、墓場に鎖で縛りつけられていたのです。ガリラヤ湖の南西部の湖岸には花崗岩の洞穴が沢山あり、人々は墓として利用してもいました。そんな洞窟に二人は閉じ込められていました。そのような男にイエス様は出会って下さったのです。

いやこのゲラサ人の地にわざわざ湖を渡って来られたのは、この二人の男に出会い、彼らを救う為であったのです。

 「人の子は、失われた人を捜し出して救う為に来たのです。」 ルカ19-10

●――悪霊はイエスの力を信じ、人はイエスを信じない…という“皮肉”な話――●

マルコは、5:6→「(男は)イエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し」と記しています。…つまり、悪霊は、誰よりも“イエスの権威と力”とを知っていて、ここで完全にイエス様に降参していることが分かるのです。悪霊どもは、イエス様に対しては、逃げようがないと諦め、あわれみを請うしかないと知っていたのです。…何と、六千もの悪霊軍団がです、全員一致して、

この方を28→「いと高き神の子、イエス様」と認めています。

他方弟子たちはと言うとどうでしょう?8:25→「…いったいこの方はどういう方なのだろうか。」弟子たち同士で、互いに驚いているのです。…皮肉な話です。サタンや悪霊どもですらイエス様を神の御子と認めているのに、主の弟子たちですら、そして私たちが生きるこの時代も同じく、災害が起こっても、コロナ禍にあってもキリストをなかなか神と信じません。先ほど見たように、風や海といった自然界ですら、イエス様のひとことに服従しているというのにまことに不思議な話です。

29→この人は、「鎖や足かせでつながれて看視される」必要がある、非常に危険な男でした。

主がこの男に名を尋ねると、「レギオン」と答えましたが、それは、ローマの軍団の単位で、六千人もの兵士から構成される大集団でした。そして、8:31→「悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、と自分たちにお命じにならないように…おびただしい豚の群れに…入ることを許してください」と懇願したのです。

これは、悪霊がイエスの権威に完全に服さざるを得ないことを示しています。

イエスが許されると、33→「豚の群れはいきなりがけを駆け下って湖に入り、おぼれ死んだ」のです。

豚の飼い主たちはこのことに驚き、37→イエスにこの村を出て行ってくれと頼むのでした。彼らは、悪霊よりも強いイエスを恐れたのです。

 

III. 家に帰って家族に、どんなに大きな祝福を下さったかを、話して(証詞・伝道)聞かせよ!

悪霊どもはこの男から豚に乗り移っていったのですが、この豚の数、半端ではありません。マルコ5:13によれば、その数は二千頭に及んでいます。ローマの軍人で言えば六千、豚に替えれば二千頭…、何という“恐るべき力”でしょう。これらの悪霊の大群を、あっと言う間にイエス様は退治なさったのですから…。村の人々は、8:35→「恐れた」のです。

この癒された男はかつて同じ村の仲間だった男が癒されたというのに、そんな喜びより、人々はレギオンに憑かれた人を見て悪霊に怯え、また悪霊を追い出したイエスを見てさらに怯えているのです。彼らには自分たちの身に損害がもたらされることを避けようとする思いがあるだけで、真理を求める心はありませんでした。

●――あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい!――●

「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい」  ルカ8-39

▼彼はイエス様について行きたかったのです。8:38→「お供をしたいとしきりに願った。」と書かれています。こんな奇跡を経験すればイエス様について行きたいと誰でも思うに違いありません。こんな冷たい人たちしかいない村に留まりたいと誰が思うでしょうか?今やこの男には、家も家庭もいないも同然なのですから…。

しかしイエス様は、彼にマルコ5:19→「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい…」と言われました。

このみ言葉の中に、私たちはキリスト者の証しの在り方を考えさせられるのです。キリスト者の証しは、まず何よりも、家庭、家族の中において表されなければなりません。…見ず知らずの人々の間で、キリストを証詞して生きることはそれほど難しいことではありません。ですが家庭では難しいのです。この男の場合、家はこの村にありました。そこで証詞をしながら生きることは難しいことであり、それはイエス様について行くことよりも難しいことだったのです。

しかし、主はこの地に留まり、福音をこの地で彼に伝え続けるよう命じられたのでした。

イエス様はペテロやヤコブの故郷で彼らに伝道させました。…そうやってこの男は故郷での伝道に専心し、ついに8:39→結果的に、彼は故郷でこの素晴らしいイエスの福音を伝えたのです。マルコ5:18~20を読みましょう。

▼あなたにも、あなたにしか届けられない“魂”があり、あなたはその方に福音を分かち合うように召されているのではないでしょうか?

イエス様がこの男に起こして下さった変化は、この人を“悪霊の支配”から解放しただけでなく、この人が、自分よりも豚を気にかける“冷たい人々”のただ中に住み、その人々に福音を告げさせるということでした。

誰の役にも立たなかった、人々の恐怖の的であった男たちは、イエスに出会って今やこの男たちでしかできない働きを見い出したのです。人は誰しも、心の底で、“生き甲斐のある人生”を求めています。“無用の存在”として軽蔑されるのは、何よりも辛いことだからです。イエスの救いは、“現実逃避”をもたらすものではありません。逆に主は私たちに“私でなければできない特別な働きの場”を与えて、この世のただ中で命を輝かせるために“逆境”をも与えて下さっているお方なのです。

ただのひとことで、“大嵐”を静め、“強力この上ない悪霊”を追い出されるお方が、あなたの人生の真の同伴者なのです。

 

イエス様が共に歩んで下さるので、私たちは人生の海の嵐のただ中に漕ぎ出すことが出来ます。見せかけの平和ではなく、私たちは置かれている状況に関わりのない真の平和(シャローム)を、イエスとの交わりの中に見い出すことができるのです