2019..19 第一礼拝 聖なる賜物! イザヤ書61章10節~11節

 

.信仰者と仕事について

  ――仕事は聖なる賜物/神は芸術家であり職人――

 聖書によれば“仕事”は、人に与えられた神からの聖なる賜物である(1:2628 。ただしこれは罪がこの世に入り込む以前の見解である…。その後、この世界に罪が入り込んで来たことにより、仕事は、楽しいものから、苦痛とフラストレーション(欲求不満)を伴うものとなった(3:1719)。

 私たちの神は、“創造者”と呼ばれるお方である。“クリエーター”、…ニュアンスが少し違うとは思うが、“メーカー(生産者)”でもあるお方である。つまり聖書の神は、日本語的に言えば「職人」…、それも「聖なる職人」なのだ。  神は、天と地を「造られ」「分けられ」「整えられ」「設け」「定め」「建て」「植え」「動かす」お方である(1:727/詩篇65913)。神はご自身に似せて私たち人間を造られたことを創世記は教えている。だから、本来仕事は、人への神からの聖なる賜物なのである。

  ――聖なる労働者イエス――

 ▼主イエスとて同じであった。イエスは弟子達と漁に出て共に漁をなさったし、畑を耕し、小麦や大麦の収穫時には、刈り入れや脱穀、精米も手伝われたはずだ。イエスはこの世では、聖なる労働者であられた。主は、生涯の大部分を説教に費やす以上に、のこぎりやトンカチを振るわれた時間に費やされたのだ。そして覚えたいことは、今も主は天において、私たちを迎える為、仕事をなさっているということだ。

“イエスの譬話”は労働者の“仕事”を扱ったものが殆どであることに気づかされる。「種撒く人」、「ブドウ畑の労働者」、「農夫たち」、「家を建てる職人」、「漁師たち」、「主婦」…etc…。イエスはこれら、ご自分の周辺に働く労働者の“仕事ぶり”を引き合いに出しながら、神の国の福音を説かれた。つまり、主は労働者の仕事ぶりに人一倍関心を寄せられていたのである。感謝なことである。

 パウロについても同じである。彼はあまり冴えない“テント職人”として真面目に働いた。彼は手紙の中で、周囲の人々を支える為に積極的に働くことを勧めている。パウロもまた労働を重んじた人だったのである。

  盗みをしている者は、もう盗んではいけません。

  むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。エペソ4:28

 ▼ルーテルやティンダルを初めとした宗教改革者たちは、”万人祭司制”を強調した。”万人祭司”を一言で言えば、人が行う(不道徳的なものを除く)全ての仕事は神と人への尊い奉仕であることを意味する。ルーテルは、「日々の労働は神の前に尊いものである!」として仕事を強調した神学者であった。英国の宗教改革者、ウィリアム・ティンダルも日記にはこのようにある。――「神を喜ばせるのに、他より勝っている仕事というものはない。たとい水汲みであろうと、皿洗いであろうと、靴磨きであろうと、…それらはみな一つ、尊い賜物なのだ。」―― 

 ①人間に委ねられた(不道徳なものを除く)あらゆる仕事は、神がお与えになった良いものであるとの仕事観を持つことは重要である。私たちは日々の労働を通して、地球上の様々な場所を管理、世話し、人間同士、互いに仕え合うようにと神によって造られた存在なのだ。…たとえ罪が、私たちの仕事の過程に“痛みと失望”を引き起こしたとしても、それ自体が神と世界を称えているという基本性格を失うものではない。

 ②人は自分に与えられた仕事を通して、現時点において、“天職”として受け取り、それによって人として成長し、

神を称える為に霊的に引き上げて行くよう信じて励むことが大切だ。

 「仕事の神学」なるものはこう教える。――「人は働くとき、物や社会を変えているだけではない。己自身がその働きを通して発展していることを忘れてはならない。人はそれを通して多くを学び、それにより自分の賜物を引き上げ、己を超えて前に進むのである。これを正しく理解することは、富を得るに勝る価値あることなのである。」――

 

.信仰者と芸術について

 ノアの大洪水後、神は二度とこの世界を水で滅ぼさないことを約束され、印を下さった。注目すべきはその印は、岩に刻まれた碑文ではなかったし、ヘラで刻み込まれた灰色の粘土版でもなかった。その“契約の印”は、空に架けられた美しい“アーチ状の虹”だった(創世9:12~15)。

神の思いは虹だけにあらず。朝日や夕日を通しても現された。神は朝な夕な、空をキャンバスにして絵を描かれ、今も、世界中のどの美術館よりも多くの観客を集めている。

 私たち人間は、この素晴らしい創造主に似せて造られたクリエーター、またメーカー的存在である。だから、今なお様々なイマジネーションを働かせ、新しいモノを様々な分野で製造する。歌を詠んだり、歌ったり、絵を描いては鑑賞し、布に織り、着て喜ぶ。イマジネーションが生み出す小説を書いて、読んで感情移入する…、といった具合だ…。こうして、人は互いの人生を精神的に豊かにするのである。

 ▼このように創り出し想像力を豊かに働かせることもまた神の賜物なのだ。料理を工夫する。味付けを施し、飾りたて、眺め、舌で転がしつつ食感を楽しむことができるのは人間だけの特権だ。服を作り、好みで選び、装い、満足感を得る。家のインテリアなどの工夫も同じだ。

このように、アートと想像力は、神から私たちに付与された賜物なのだ。

み霊に満たされたベツァルエルやオホリアブといった職人たちは、まさにアーティストだった(出エジ29:31~35)。

 だがこれらの芸術性もまた、罪の侵入以後、的外れの世界に移行した。だから正しい状態に戻すにはベツァルエルやオホリアブのように、キリストの十字架の罪の贖いによる力と、聖霊の満たしが不可欠なのである。キリストの十字架の贖いのみが、全ての罪から全てのものを清め分かつのである。

 …ご自分の肉において、敵意(罪)を廃棄された方です。

 …このことは、二つのものをご自身において新しい一人の人に造り上げて、平和を実現する為であり、また、両者を一つの体として、

 十字架によって神と和解させる為なのです。敵意(罪)は十字架によって葬り去られました。 エペソ2:15~16

.信仰者と食・会話について

 

 食べ物もただ腹を満たすだけのものではない。十分に食べ物があれば人はおのずとおいしい料理を求め、その歯触り、味、色合い、香りを楽しむ。料理は私たちに喜びを与えてくれるものだからだ。そのような料理には技術と想像力が必要とされる。世界のどの文化でも、お祝い事といえばたいていごちそうの時で、人々は時間をかけて料理する。味を付け、蒸し、焼き、煮て美味しく素材の風味を楽しみながら食べるのは人間だけだ。つまり私たちは空腹を満たすからといって味気ない食物では満足せず、この世界に生きていて“嬉しい・楽しい”と感じさせるような色、味、香りの喜びを求めて生きているのだ。だがしかしこれもまたやり過ぎの場合があるから注意が必要である

  …あなた方は、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わす為にしなさい。

  …つまずきを与えないようにしなさい。 Ⅰコリ10:31~32

 世界には、貧困ラインを下回り、飢えている人が多くいる。にも拘わらず、先進国では肥満が問題となっている。食事を楽しむことは大切だ。だが、これも神の栄光を現わす為に成されるべきであることを聖書は教えている。カルヴアンは語っている。

――「神は何のために食べ物を造られたのか。それは、私たちの空腹を満たそうとされただけではなく、私たちの喜びと楽しみのためでもあった。ハーブ、樹木(じゅもく)、また果物(くだもの)には、様々な用途があるが、それに加えて、私たちの目をその“美しさ”で喜ばせ、また私たちの心をその“香り”で楽しませて下さるのが主の御旨なのだ。

…神は、必要なことだけでなく、それを超えた多くの美しいものを与えて下さったからである。」――

 創18:1~9→アブラハムは天幕の中にいた妻のサラに、訪ねて来た神からの客人に御馳走をした。素晴らしい料理であったことが文面から推察できる。ヨセフが父や兄たちをエジプトに呼び寄せた時、エジプト王パロはこう言った。45:18→「…私はあなた方にエジプトの最良の地を与え、地の最も良いものを食べさせる。」

 ――品と質の良い会話を!――

 話すことばでも芸術性が求められている。単調に話し続けるのか、それとも抑揚を考えて、生き生きと話すか…。同じ単語を繰り返し使っていないか?…現代社会これほど汚い言葉が広がったのは、人々が情感なり強調を豊かに表す言葉を使わなくなったからだ、とある言語学者たちは考えている。大切なことは、服装であろうと、料理であろうと、言葉遣いであろうと…、何をするにせよ私たちは想像力が豊かで、センス良く、喜びに満ちた被造物として生きることを神が求めておられるということを知ることである。そんな生き方をしていくように心掛ける人の人生に神の祝福が伴うのは必然である。

 ▼私たちは神からの賜物を神と人の為に精一杯磨きながら人生を歩むべきだということだ。神は、私たちを神ご自身に似せて造られた。私たちが絵画や音楽、彫刻や小説、写真や建築、センスの良い服の組み合わせやおいしい料理、知恵ある言葉や気のきいた会話、そういったものを生み出したがるのはその理由による。そのようなセンスある生き方をもって主の御名を崇められたらどんなに幸いだろう

Ⅰテモ4:12/テト2:8/イザヤ61:10~11

 

 .仕事と遊びについて

 「遊びはクリスチャンにとって“崇高な召し”の一つである。」と語れば、抵抗を感じるクリスチャンも少なくないだろう。

私たちの生活に、かける時間の多くは、何かを生産したり、何かを変えたりすることに使われるが、“遊び”はそうではない。

“遊び”は、ただ神の造られたこの素晴らしい世界にくつろぎ、神との平和を楽しむひとときであるからだ。

 これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ(遊び)喜ぼう 詩篇118:24

 都の広場は、男の子と女の子で一杯になる。子供たちはその広場で遊ぶ ゼカリヤ8:5

 学生は“勉強”を仕事とし、社会人はそれぞれの職場で仕事をこなし、主婦は家事に専念する。…それで、その為には体を休ませる必要があるのだが、もうひとつ重要なことがある。それは、人には(*もちろん、それは良質のものであるべきであるが)“遊び”が必要であるという点である。遊びは休息の一種である。遊びは、時に激しいスポーツやゲームである場合がある。サッカー、スイミング、碁や将棋などは、体や頭をフル回転し、終わった時には、クタクタに疲れ切ってしまうが、不思議に内側には、生き返ったようなすがすがしさを感じるのだ。すごく疲れる。

だが爽やかに終われるのはなぜか?答えは、それが仕事によるものではないからだ。だからリフレッシュでき明日へのチャレンジに向かえるのだ。だから、遊びは休息の一つなのである。

 “仕事”と“遊び”の境界線はぼやけている。なぜならある人にとっての遊びは、他の人にとっては仕事となるからだ。例えば、登山は、山岳救助隊員にとってハードな“仕事”であるが、ある人々にとっては、楽しい“遊び”となる。農夫は生活の為に汗して畑を耕すが、別の人は手を真っ黒にしながら菜園を作り楽しみつつクワをふるう。漁師たちは、命がけで魚を取るが、釣り人にとって、魚釣りは楽しい遊び以外の何ものでもない。

つまり、“仕事”と“休み”、“仕事”と“遊び”の違いは、こちら側の“心持ち”次第なのだ。 

――遊びとは?――

 遊びとは、「理由もなくすること」である。この社会では、成すべき仕事が非常に多いし、その上冷酷で残酷なノルマの下で苦しまねばならない。だから休息と遊びというものは、人生を生きる上で非常に重要なものとなる。 この世界には、厳しい状況に置かれている人たちが沢山いる。だがそんな困難な状況に置かれている彼らでさえ、可能な時には“遊ぶ”ことを心得ている。かつて、シベリア抑留者たちが獄寒の地で過酷な状況の中で耐えられたのは、石ころを駒に変えた将棋で、懐かしい唱歌を思い出し歌い合ながら生き抜いたという話を聞いたことがある。

人は、遊び心で、人生を活性化させることができるのである。イエス様でさえ、地面に何かを書かれる遊び心を持ったお方であった。

 遊びにはその時気づけない多くの利点がある。遊びは、心と体をリフレッシュさせ、脂肪を削(そ)いで健康にし、仲間との絆を深め合う力がある。子供たちは遊びながら育っていく。我々も、そうだった。

 ▼「最高の人生の見つけ方」というハリウッド映画がある。「人生の全てを“家庭”に捧げてきた“大真面目な主婦”と、人生の全てを“仕事”に捧げてきた“大金持ちの女社長”。価値観が絶対的に違う、また絶対に出会うはずもない二人が病院で出会った。…“余命宣告”を受けた二人がたまたま手にした、同じ病院に入院する12歳の少女の“死ぬまでにやりたいことリスト”…。二人はこのリストの中の全てを実行するという“あり得ない決断”をする。今までの自分であれば、“絶対にやらないこと”も、自らの“殻”を破って初体験。リストの一つにあったスカイダイビングに二人は挑戦することに。。。そうすることで、今まで気付かなかった“生きる楽しさ”と“幸せ”に出会えた二人には、ある奇跡が待っていた――。

「あなたの(遊び心の)せいで、残りの人生楽しくなるなんて」という言葉から、どんなときでも人生を幸せに変えられるメッセージが伝わってくる。」 遊びは馬鹿にならないものなのだ。

 毎日毎日、私はそこで遊んでいた。

 神の御顔の前で、いつも遊び回っていた。

 神の造られた地上でくまなく遊び、

 すべての人々と楽しんだ。 箴言8:30~31/ 

かつて「祝い(遊び)」のムードは、イスラエル人の生活に溢れていた。それは、什一献金にさえ現れていた。什一献金が、遊びやお祝いと結びつくとは考えにくいかも知れないが、当時のイスラエル人の什一献金の全てが、常に神殿(今の教会)に捧げられたわけではない。ある年には、神殿に仕えていたレビ人の所に持っていかれた。そして三年目には、次のようにされたとある。

 第三年目の十分の一を納める年に、あなたの収穫の十分の一を全部納め終わり、これをレビ人、在留異国人、みなしご、やもめに与えて、

 彼らがあなたの町囲みのうちで食べて満ち足り… 申命26:12~13/同14:28~29

 これらの命令によれば十分の一献金は、困窮している人々、そして外国人にさえも与えられた。

 捧げものを捧げる場所が遠い場合には、神は次のように言われている。→申命14:24~27

 「捧げものを捧げる場所が遠過ぎる場合、山羊や羊、鳥また穀物を、山を越え砂漠を渡って持って行くのは大変なので、

 動物や穀物を売って、運びやすいお金に換えて持って来なさい。

 そして、その場に着いたら、飲み食いのために何でも好きなものを買って、家族と共にお祝いし、それをレビ人とも分かち合いなさい。」

 ここで神の民は、什一献金の一部を使って飲み食いをし、楽しむようにと命じられているのである。何とここでは、この時十分の一が、パーティーの為に用いられていたのである。

 ▼三年ごとに、什一献金はとびきり上等の祭りの為に使われた。イスラエルには、七週の祭り、仮庵の祭り、刈り入れの祭りという三大祭りがあったが、今日のキリスト教会は、聖書の祭りを自分たちの祭りと結びつけていないように思う。何か別の「霊的」な世界のことを語っていると思っているからではないのか?しかし、主の祭りの日、彼らは、イスラエルは主に命じられたとおり、思いっきり飲み食いしたのだ。

 もちろん、全ての祭りが豪華なパーティーだったわけではない。あるものは意図的に禁欲的だった。断食をしたり、特別な制限された食べ物を食べたり、時には苦いものも食べた(*たとえば、過ぎ越しの祭り、種なしパンの祭り、贖罪の日など)。しかし、基本的に祭りは“祝賀パーティー”であって、にぎやかなお祝いがなされた。お祝い(パーティー)とは“遊び”なのであった。イスラエル人の生活は、倹約ばかりであって、最低限必要なもの以外には出費しないという退屈なものではなかったのだ。ちょうど仕事と休みのリズムのように、それは生活のリズムだった。

 彼らは、普段は質素な生活を送っていたし、貧しい人々、困窮している人々と物を分かち合い、そのような人々の借金を免除するよう神に命じられていた。しかし、祭りは盛大にやった。

 主イエスの場合も同じである。神の御旨に従って、持っていたものの十分の一を取り、時には一週間を通して祝った。彼らの生活は全てが遊びではなく、全てが休みでもなく、全てが仕事でもなかった。彼らの生活には、遊びも、休みも、仕事もあって、それら全てが神の御前に、神に従うがゆえに、神への感謝をもってなされたのである。

 

これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。」詩篇118:24

 

 

 

2019.2.10 第一礼拝   成熟せよ、本物となれ ― ヤコブ1:1~4 ―

 

ヤコブ1:1 神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、国外に散っている十二の部族へあいさつを送ります。

 

このヤコブ書は講堂書簡のトップバッターであり、一つ前のへブル人への手紙に書かれているクリスチャンの指針をより具体的に示している。

記者であるヤコブはイエス・キリストの父ヨセフと母マリアから生まれたキリストの兄弟であり、エルサレム教会の指導者として活躍した人物だった。 

 

使徒15:13~ 二人(バルバナとパウロ)が話し終えると、ヤコブがこう言った。・・・ 

 

ガラテヤ1:19 主の兄弟ヤコブは別として・・・

 

ガラテヤ2:9 柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、・・・                                                               

 

しかし最初からクリスチャンだったわけではなく、イエス・キリストと何十年も生活をともにしていたにもかかわらず、長い間、彼はイエスを神と信じていなかったのだ。

 

  ヨハネ7:5 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。

 

ではいつからイエスをキリストとして信じたのか? 

 

  I コリント15:4~7  ~ その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。

 

疑い深いヤコブは復活のイエス・キリストに出会うことによって、本物のクリスチャンに変えられていった。

 

「神と主イエス・キリストのしもべ」ヤコブ とあるようにキリストの実兄弟であることも、エルサレム教会の指導者であることも誇ることなく、

 

謙虚に自分をキリストのしもべ = 最下級の奴隷 と記している。

 

 

 

 そのヤコブから、今ローマ帝国からの激しい迫害を受けているクリスチャンたちに呼びかけているのだ。

 

  ヤコブ1:2 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上ない喜びと思いなさい。

 

それはないんじゃない? 言いすぎじゃあ? と思われるだろうか?

 

想像を絶する迫害の中にあったクリスチャンたちにとって、このヤコブの励ましは砂漠で生き絶え絶えになっている人にとってのオアシスと同様この上ないなぐさめ、生きる力となったにちがいない。

 

また、ここには「もし」という言葉は使われてはいない。人は必ず大なり小なり試練に会うのだ。

 

  ヤコブ1:3~4 信仰が試されると忍耐が生じるということをあなたがたは知っているからです。

 

      その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、

 

成長を遂げた、完全な者となります。

 

  ヤコブ5:11 見なさい。耐え忍んだ人は幸いであると私たちは考えます。

 

あなたがたはヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。

 

主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。

 

主はあらしの中からヨブに答えられたように、私たちが試練に会う時も、常に私たちとともにおられるインマヌエルの神である。このイエス・キリストをしっかり見上げて力をいただき、神を愛する者に約束された、いのちの冠をいただくために互いに励ましあって成長していきたいものである。

 

 

 

祝福された人間関係! ~道標より~

 

◇愛に満ちた人間関係

 今日、聖書による宗教教育は必要でしょうか? 無論、答えは ”然り” です。

 カーネギー工科大学で、一万人の社会的に成功した人々についてその原因を調べたところ、

能力があって成功した人はわずかに15%で、対人関係を築く能力が優れているために成功した人が実に85%であった

という報告をして、人々を驚かせました。

また他の研究機関からは、ある年に解雇された4000人の人々のうち能力がなくて解雇された者はわずか10%であるのに対し、対人関係に問題があって解雇された者はなんと90%に達しているとの報告がされています。

これほど人間関係が大きな比重を占めているのに、多くの家庭では子供を少しでも”成績の良い学校”に入れようとして、

友人とも遊ばせず、勉強や習い事ばかりさせています。

それは正しいことではありません。 

 聖書は正しい人間関係、愛に満ちた人間関係を教えています。

”愛” という言葉が聖書の中には溢れています。 ”神は愛なり” です。 

神を信じ神(イエス・キリスト)を友とされるなら、あなたには愛に満ちた人間関係を必ずや身に着けられることでしょう。

教会は魂の救いの場であると同時にまた聖書教育の場でもあるのです。

 

◇前向きの人間関係

 

 現代は他人との関係どころか、親子の人間関係すら育っていない家庭が増えていると言われます。

このような家庭環境で育った子供たちがいろいろな事件を起こすケースが多くみられます。

また、家庭における夫婦間の問題も悪化の一途をたどっています。

アメリカでは18歳以下の子供の4人に1人が片親家庭。 子供たちの6割は成人するまでにどこかの時点で親の別居、離婚など

片親だけの生活を体験している、こんな統計結果も発表されています。

同じくアメリカでは平均して1日に4人の妻が夫の暴力によって殺害されている、との調査報告もでています。

 日本でも今日、”アダルトチルドレン”なる恐ろしい言葉が定着しています。

「誰も愛せない。夫、妻、子供と心が通わせない。結婚するのが恐ろしい。恐ろしくて子供が産めない。産んでも育てられない。

生きていくのが怖い、、、」 ”大人になり切れない大人”が増えているというのです。

 マイナス思考ではなく、今こそ聖書教育によって私たちは真の”プラス思考積極型人間”へと変えていただく必要があるのではないでしょうか。

 

◇勝利の人間関係

 

 聖書はあなたの今日からの人生を”勝利の人生”へと変えてくれるのです。

今までのあなたのどんな失敗も挫折も、これからの人生の肥料として神様は用いて下さいます。

聖書の中には多くの人物の伝記物語が記されていますが、神を信じて生きた人は例外なしに勝利を得ています。

アブラハム、ヨセフ、ダビデ、ソロモン、パウロ、、、、

聖書の中には3573つの祝福の約束が記されています。聖書を学ぶ人、そして信じる人は必ず神による祝福に満ちた人生を送ることができるのです。

イギリスの誇る詩人テニソンは次のように述べています。

「聖書を読むこと、そのことこそが真の教育なのである」

 

神のみことばにより真に祝福された人間関係に生きる人にあなたもなれるのです。

 

 

 

 

2018..1  元旦礼拝 主なる神を第一として! 詩篇127:1~5  

 

  

 

.焦る必要はない。慌てる必要もない。ただ主を見て生きる!

 

主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。

あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。

主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。   詩127:1~2

 

 作者はソロモンのようだが、直接的にソロモン自身の体験であったか、彼の師の教えか、彼の友人の体験であったか分からない。それはともかく、

彼は生きるために、一生懸命朝から晩まで寝食も惜しんで働いて来た人だったようだ。人生の目的は何だろう? 結婚、子供、家庭、

仕事での成功? 素敵な人と結婚し、子供が生まれ、一家を支える者となり、家を構え、やがて町の有力者となり、評判の人物となること、、、

 

日本人に似てイスラエル人は勤勉だ。しかし、いくら勤勉で寝る間も惜しんで働き、財を成しても、結局は、神様ご自身がその人の家を建て、

その人の町を守って下さるのでなければ、その苦労も空しいものなのだと聖書は教えている。

 

2節→「あなた方が早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それは空しい」

朝早く起きて働き、夜遅くまで夜なべをしながら働いて、生活の糧を得ても、それは空しいことだ」と言っている。

 

この人は、朝早く起きて夜は遅くまで仕事をしてきたのだ。彼は、一体いつ眠るのか?人はそのような人を称賛する。

 「日本人ならば、身を粉にして働いてきた先人たちを尊敬するべきだ。彼らはこんなに犠牲を払い、不眠不休で彼らは偉業を成し遂げたのだ。

この人たちこそ誇れる日本人なのだ!」…だが聖書は言う。

 

「主が家(あなた)を建てるのでなければ、家(あなたと家庭と教会)を建てる者の働き(労苦)はむなしい。

主が町(あなたの家庭)を守るのでなければ、守る者の見張りは空しい。

あなた方が早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦(焦慮して<あせって>の糧を食べるのも、それはむなしい。

主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えて下さる。」

 

たとえ努力が実って財を、栄誉を、名を上げたとしても、神様を第一とし、

神様が自分の生活を仕事を家を支えて養って下さるという神信仰・十字架と復活信仰がない限り、人生は空しいのだと断言している。

 

今日のように、不況でアルバイトを何件もこなさなければ生きて行くことができない時代であっても、やはり神を第一とし、

神が自分の生活を、仕事を家を支えて養って下さるという信仰がない限り、その人の人生は空しい、聖書はそう教えている。

 

 

 

Ⅱ.主御自身が建てて下さることを信じて歩む!

 

1節→敵から身を守るために、いくら立派な門を造り外壁を築いても、またどんなセキュリテイ―をつけたとしても、主ご自身が町を守って下さるのでなければ、敵(サタンと悪霊ども)の侵入と攻撃に耐えることはできないと言う。これを逆に読めば、「たとえ、町の防備が貧弱であ@ZJHの町は“難攻不落”の要塞同然、絶対に侵入されることはない」ということである。またたとえ、どんなに力がなく、資金がなくとも、主がこの家を建てようと決断されさえするなら、その家は絶対に必ず建つ(繁栄する)。まず、神ご自身が家を建てる、神様ご自身が家を守るというご決断をして下さらない限り、私たちは何もできないのだ。

 

だから何をするにしても、まず主がそのように“ご決断”されているのか?もしかしたら“自分の願い”“願望”だけで物事を押し進めているのではないだろうかということを私たちは反省してみる必要がある。

 

主なる神様を先頭にしなければ家も教会も建ちません。即ち、神様を第一として進んで行かなければ、家も町も教会も敵に侵略されてしまう。それは歴史を見ても分かる。

 

 神様を第一にする、そして神様に従うことを“人生の目的”とする。その為には何よりもまず祈りが大事だ。祈るごとに、主が自分に何をせよと言っているのが聞こえてくるような気がする。祈りとは、何よりも主御自身を求めることではないだろうか?これこそが私たちの人生の、そして信仰生活の目標でありゴールなのではないかと思う。

 

私は一つの事を主に願った。私はそれを求めている。

私の命の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、その為に。詩27:4   

 

「神に従う人は必ず実を結ぶ。神はおられるからだ。」 常に主を第一とし、何事においても、主が良しとされるところを歩む。そのために、まず祈りの中で、御言葉を通して主の御心を常に求めて行こうではないか。

 

 

 

Ⅲ.胎の実は報いである

 

最後に、このように主を第一として歩んだ家族が、どのような結果、どのような報酬を受けるかが記されている。

 

見よ、子供たちは主の賜物、胎の実は報酬である。… 詩127:4~5

 

主を第一として歩んだ家は、多くの子供(人生の実/繁栄)をいただくということである。「胎の実」ですから、この家の奥さんは妊娠しているということになる。そして、その子供たちが、今度は親を支えて勇敢に戦ってくれる勇士となって敵と戦ってくれるようになるというのだ。

 

これを教会に当てはめて言うと、次々と霊の子供が誕生するということである。

次々とバプテスマが与えられて新生児が生まれることを意味している。

生まれたばかりの霊の子供、そしてまたお母さんのお腹には出産を待っている次の求道者がいるということである。

 

これが霊的に祝福された家族の姿なのだ。子供の出産も子育ても大変だが、それが神様の祝福された教会の姿ではないだろうか。

そして、同じような情景が詩128:3~6にも記されている。

 

あなたの妻は家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。… 詩編128:3

 

教会の家の中には、新しく生まれた霊の子供たちがいっぱいいて、霊の糧である御言葉のミルクをたっぷりと飲んでいる。

そして教会の家の中は、子供や孫やひ孫でごった返すようになると言っている。

 

霊の子供を産む妻は誰か。霊の子育て中のお母さんは誰か。赤ちゃんにおしめを変えたり、ミルクを飲ませたりするのは大変だ。

やっと子育てが終わったと思ったら、二番目の子供が。一人っ子ではないから、お母さんも大変だ。大家族は何人も子供がおり、

お腹を大きくしながら、子育てをしなければならないかもしれない。

でもそれが主に祝福された家族なのだ。主御自身を第一とし、主がまず家を建てて下さることを信じ願っている教会の姿なのである。

 

  あくせく働いて、いつもいがみ合って暮らしている家庭になってはいけない。それはいつの間にか自分が主人になっているのである。

そんな家はどんなに立派な建物でも、空しい。

やがて崩れてしまう。主を第一として、主にいつも寄りすがって行かなければ、どんなに強固な城壁を築いても、たちまちのうちに崩れてしまうのだ。

 

 今年、何よりも主ご自身を第一としよう。主を求めよう。そのためにも、新しいこの2018年、心を一つにして共に祈っていこう。

 

どんな時にも神様の御言葉を求め、これに従いこれに教えられて行くことを願おう。

そこにこそ、私たちの人生の目的があり、祝福の源がある。

 

 

…あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。 Ⅰコリ10:31

なぜなら万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、王座も、主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。

万物は御子によって造られ、御子の為に造られたのです。

御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。   コロサイ1:16~17

 

 

 

 

 

 

2017.9.24 ― ギデオンの祭壇~アドナイ・シャロム!  士師記6:11~24

 

Ⅰ.「勇者よ、主があなたと一緒におられる。」この言葉がみ使いによるギデオンへの第一声であったことを覚えたい!

 

さて、主の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下に座った。このとき、ヨアシュの子ギデオンはミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で小麦を打っていた。主の使いが彼に現われて言った。『勇士よ。主があなたといっしょにおられる。』 士師記6:11~12

 

 ギデオンは、他のイスラエル人たちと同様にまるでいなごの大群のように大勢でやって来ては略奪する恐るべき敵、ミデヤン人やアマレク人たちを恐れて、酒ぶねの中に隠れてこっそりと小麦を打っていた。この時イスラエルの民は、これら「荒らす憎むべきものたち」である“異教の民”に立ち向かうことをせず、恐れて逃げ惑いながら野や山や洞穴などで暮らしていた。

   ここには出エジプト時に見られた果敢なあのたくましいイスラエルの民の姿はみじんもない。

   信仰の機能不全状態に陥り、臆病風に吹き回され、影がすっかり薄くなってしまった一人の人間に目を止めて神は何と言われたか?… 「勇士よ!」である。 主はこの臆病な男にそう呼びかけて下さったのだ。

 

  この御使いのことばに違和感を感じる人は少なくないと思う。このことばがギデオンに向けられた第一声だったのだから。 

 ギデオンはこの時、果たして「勇士」だったか?…「勇士」=「魅力的で雄々しく戦う人、勇敢な兵士」という意味を持つ。

 キリストによって救われた私たちを、たとえ私たちがどうであろうとキリストは、ひたむきにご自身の束を果たそうと愛して下さるお方

 なのだ。

   神の賜物と召命とは変わることがありません。ローマ1:29

 

 ところで、なぜみ使いはこのことばをギデオンに投げかけなければなかったのか? それほどにギデオンはこの時、落胆し、

 気弱で、貧しくなっていたからである。神様は6章に書かれている状況を全てよくご存知であった。

 なぜなら神は、私たちの心よりも大きく(認めて、理解しておられる)、

 そして何もかもご存知だ(神に隠されているものは何もない)からです。 Ⅰヨハネ3:20

 

 モーセの場合も似ていた。一介の羊飼いに落ちぶれて40年…、もう先も望めなくなってしまった社会的弱者であったこの老人を

「燃えても絶対に焼け尽きない柴」の風景を彼に見させて、用いる為に選んで下さったのではなかったか(出エジプト3:1~6)

 キリストは、無力な者、年をとって、いかに落ちぶれても、枯れ木のようになって何もできなくなった者にでも、

 その者の所にまで下りて来られて、「勇士よ、私があなたと一緒にいる」、とことばをかけて下さるのだ。

   正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

  しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、

  神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 ローマ5-7、8

 

 

Ⅱ.ギデオンの言い訳に学ぶ三つのこと!

 

 

 

  1.「なぜ=Why」 という言葉に見られる不信仰!

 

 「なぜ/Whyというのは、今置かれている危機的状況の結果の原因、を探している言葉だ。自分が今こんなになってしまったのは、

 誰か(何か)のせいだ。親のせい? 上司のせい? 信仰をもったせい,,,

   ギデオンはその御使いに言った。「ああ、主よ。もし主が私たちといっしょおられるなら、なぜこれらのことがみな、

  私たちに起こったのでしょうか。私たちの先祖たちが、『主は私たちをエジプトから上らせたではないか』と言って、

  私たちに話したあの驚くべきみわざはみな、どこにありますか?今、主は私たちを捨てて、ミデヤン人の手に渡されました。」

   士師記6:13

 

彼は、私たちは選ばれ救われた民なのに、なぜミデヤン人やアマレク人たちに圧迫され、畑は荒され放題、食べる物もなくなって、こんなに惨めな生活を強いられなければならないのか?あの“出エジプトの神”はどこに行っていまわれたのか?…しまいには、私たちに話したあの驚くべきみわざはみな、どこにありますか?今、主は私たちを捨てて、ミデヤン人の手に渡されました。」と、神に食ってかかっている始末である。…これまでの自分たちの今の不幸な状況は、全部神のせいだと言わんばかりの態度である。 

 「なぜ/Whyという不信仰は、しばしばこのような言葉を神に対して平気で吐くのである。これはエデンの園におけるサタンの言葉と

 同じである。

  …神様は、こんな自分のような者を選んで救って下さり、深い愛を注いで下さった。 

 私の場合、伝道者として魂の救いの業をずっと43年も委ねて下さり、常に牧会の最前線で自分を助け導いて下さった。

 にも拘わらず、状況が少しうまく行かなくなると、神様に対して平気で悪口雑言を投げ返してしまう。それが私である。

 「わたしはあなたに天の御国の鍵を上げます。…」マタ16:19私に、そしてあなたに、「あなたは勇士だ!」と言って下さっている

 キリスト。

 み使いはギデオンに、「…あなたのその力で行き…」6:14と言っている。私たちはすでにその力を持っているということだ。

 私たちは、イエス・キリストの十字架によって救われた。十字架以上に力あるものはこの世界にはない。

 救いを経験しているのであれば、あなたは立ち上がらなければならいはずだ。

 

 

 

  2.「どうすれば=How」 という言葉に見られる不信仰!

 

 二番目の不信仰は、「どのようにして…。」「どうすれば…」6:15という問いである。イスラエルの民の救い方についてである。

 ギデオンは自分の信仰と力のなさを感じて神にこう言い訳したのである。

  「ああ、主よ、私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存知のように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、

  私は父の家で一番若い(一番年下の者)のです。」 士師記6:15

 

 これに対して神は、「私はあなたと一緒にいる!」。(6:16) だからあなたは悪魔にも、悪霊どもにも必ず勝利する!

 これが答えなのだ。この事実こそが私たちの持つ最大の武器なのだ。救われるのは主御自身である。

 主がいなければ勝てない勝負なのだ。そうでなければ一人として救いは起こり得ない。

 「…信仰が持てたら従うべきだ。ゲッセマネにでもカルバリにでも、主の御手うちにあれば、わたしにもできます。

  どうぞ使って下さいませ。主のそばで何になりと主こそ私たちの力、救いの源である。万軍の主なる神が一緒に働いて、

  救いを成し遂げて下さる。これが魂を勝ち取る方法である。主と共にいること、これが全ての力の源泉である。

  ただ主の御声に従って、進み行けばいい。

 

  3.「もし=If」という言葉に見られる不信仰!

 

三番目のギデオンの不信仰は、「もし」という不信仰を彼が有していたということである。このみ使いは本当に神から来たのか?神がこんな自分を選ぶなんて信じられなかったのだ。彼は神が本物かどうか、本当におられるのかどうか試して確かめようとしたのである。

 「ああ、主よ。もし主が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちにおこったのでしょうか。…

  …お願いです。私と話しておられるのがあなたであるというしるしを、私に見せて下さい。どうか、私が贈り物を持ってきて、

  あなたのところに戻り、み前にそれを供えるまで、ここを離れないで下さい。それで、… 士師記6:13/6:17~19

 

 これらギデオンの一連の不信仰が取り去られるには、ある一つの彼の手によるある行為が必要であった。その行為とは、神への礼拝(6:18~20)であった。

  そしてこの時初めて、彼はみ使いが神の使いであることが理解できたのである。ようやく彼の霊の眼が開かれたのだった。

 「そこで、…そこに主の祭壇を築いた。…これで、この方が主の使いであったことが分かった。それでギデオンは言った。

  『ああ、神主よ…』」(22~24)

 

あなたもギデオンようにして神様を試したことはないか?不信仰な行為に対しても、神様は誠実に答えて下さるお方だ。

神様から「勇者よ。」という召しを受けたがどうしても自信がない、信じられない、不安だと思う方はぜひ神様に尋ねてみて欲しい。

本当にあなたがわたしを勇士として、士師として選ばれたのなら何かしるしを見せて下さいと。

  ギデオンの霊的な目が開かれて、この御使いが本当に神からの使いであると悟った瞬間に、このみ使いの姿は消えてなくなった

 (6:21)。これは、あのエマオ途上での二人の弟子の姿に似ている。あの新約の二人の弟子もイエス様が復活されたという

  確信が与えられた瞬間に、イエス様の姿が消えてなくなった。ギデオンも今やっと、目が覚めたのである。

 

「ああ、神、主よ。私は面と向かって、主の使いを見てしまいました。」(6:22)しかし、「安心しなさい。恐れるな。あなたは死なない。」(6-23)という言葉をいただいた。つまり、神を忘れ、苦しく追われるような生活に明け暮れていた自分。それでも主は、ギデオンを滅ぼしてしまうことなく、その罪を赦して、「安心しなさい。」と平安を与えて下さった。そこでギデオンは、かけがえのない食料、小山羊とパンを持って来て主にささげたのである。

 ギデオンは今ここで初めて、神を第一としたのだった。祭壇を築くこと、礼拝をすることを求めたのである。

 それがこのギデオンの祭壇、「アドナイ・シャロム平和の祭壇」(6:24)である。

 今まで神に背を向けて生活に追われていた自分の罪を告白して、悔い改める決心をした“記念の祭壇”であった。

 ・・・すると、たちまち火が岩から燃え上がって、…パンを焼き尽くしてしまった。 6:21

  神は彼の礼拝を喜んで下さり、聖霊の火をもって受け止めて下さり、同時にギデオンにも聖霊の炎を持って神が見える霊的な目を

 与えて下さったのだった。死ぬべきはずの人間が、罪赦されて生かされた。

 皆さんはいかがだろうか?神に献げる肉とパンより、自分が日々食べる肉とパンを最優先してはいないか?

 すべてのものは、神の手から出ているのだということを忘れないで、まず神を第一として祭壇を築くことだ。

 これがギデオンの築いた神との平和の祭壇である。

 

 ともすれば、クリスチャンでさえも神の救いの力、十字架の贖いの力を忘れ去って、自分と生活を第一にしてしまっている背信の時代。

 その只中にあって、神様はわたしたちに「勇者よ、立ち上がれ。主があなたと共におられる。」と呼びかけておられる。

 この主の呼びかけに応えて行きたい。罪の悔い改めをもって、主の祭壇を築いて祈って行く者となりたいと願うものである。 

 

 

 

 

 

      

 

  2017... ―イエスの愛によって何かをなせ! ―  Ⅰコリント3:9~15

 私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。  もし、誰かがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。  もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。 もし誰かの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。  Ⅰコリント3:9~15

 クレジット・カードは便利なカードである。手元に現金がなくても、買い物ができる。好きな時に好きなもの、好きなだけ買うことができるのだ。しかしクレジット・カードには一つ問題がある。それは、月に一度必ず清算しなければならないという点である。

 便利なクレジット・カードだが、それは私たちの人生と共通点があるように思う。私たちは自分の人生を、好きなように生きることができる。どんな仕事をするか、誰と結婚するか、どんな場所に行くか、どんな所に住むか?…。たいてい自分で決定することができるのだが、しかし聖書は教えている。神から私たちに与えられたこの命をどう生きたか、どう使ったかがやがて必ず清算される日が来ると。

  「人間には、一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている」ヘブル9:27 

 私たちは「人間、一度死ぬこと」というのは、観察と、経験でよく知っているが、「死後にさばきを受けること」ということについてはどうだろうか? 聖書は「人間、死んで終わりなのではない。実はその後が大切だ!死後、人は皆、神の前に出されて審きを受ける!」と教えている。 

  死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じて裁かれた     黙示録20:12

 

 パウロはコリント教会のクリスチャンに、「あなたがたは神の畑、神の建物です」Ⅰコリント3:9と言った。私たちの人生は畑であり、私たちの人生という畑から神様は最後に収穫を得たいと望んでおられることを意味している。つまり、神様は、死後に私たちから豊かな収穫を期待されているということである。  また「あなた方は”神の建物”である」3:9 とも言われている。建物とは建築物であり、建築途中のものは「建物」とは言わない。完成後初めて”建物”となる。パウロは、私たちは死後建物としての評価を得られるかどうかが大切だと言っているのだ。人生というこの建物をあなた方は完成させなければならない、聖書はそう教えている。

 

 .人生の土台をキリストに置く!

 「…どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。」Ⅰコリント3:10

 「その土台とは、イエス・キリストです。」、Ⅰコリント3:10

 コリントの教会の土台は一体誰なのか?それは、この教会を作ったパウロでもなければ、育てたアポロでもない。この教会の土台はイエスご自身であることをもう一度思い起こさせようとしている。 大切なのは、どれだけ大きな家を建てたかではない、どんな土台の上に建てたか、なのだ。

 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。 マタイ72425

 

あなたの人生はどんな土台の上に建てられているだろうか?土台とは、私たちが人生の中で最も信頼しているもの。

 ある人にとってそれは財産、お金。お金があれば沢山のことができる。病気になった時、より高度な治療を受けることもできる。より栄養価の高いものを買って食べることができるかも知れない。だが、実際はどうだろう?医学にも限界がある。 ある人は自分の家族を信頼する。多くの場合、家族は互いに助け合って困難を乗り切ることができるが、そんな家族でもどうにもできないケース、裏切られるケースが沢山あるのだ。私たちは何に信頼すれば良いのだろう?

 ▼ある女性の体験談。28歳の時にクリスチャンであった妹さんに誘われて、小さな家庭集会に行き、それがきっかけでクリスチャンになった。

 「当時、私は、自分の個人的なことや仕事のことで大変苦しくて、たまらない時期でした。手相や生命判断や様々な占いに問題の解決を求めたこともありましたが、一時的に解決したように見えても、すぐに前よりも悪い状況になってしまいました。そんな時、妹に教会に誘われ、聖書の話を聞いているうちに、私の心の空間を埋めて、問題を本質的に解決するには、神を受け入れるしかないと判断したのです。」

  もちろんクリスチャンになってからも、様々な試練を通過した。大病を二回、一回はストレスの為、精神的な病気に苦しめられ、二つ目は大腸ガンだった。二つとも、治療と手術によって治ったが、その時のことを次のように話しておられる。

 「…そんな時、疲れ切って、『神様、私にはもう何もできません…』、そう祈った時、神様は私の心の中に一つのみ言葉を下さいました。それは『…だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』 マタイ6:33    私は当時、家族のために一生懸命に仕事をしていました。しかし私の生活の優先順位は、いつの間にか間違っていたのです。礼拝に出席せずに、仕事に向かう日曜日も多かったのです。それまでは一番大切なものは仕事、その次に家族、そしてその次に信仰がありました。…私は根本的に間違っていました。…その日から、まず神を第一にしようと決めました。私たちの会社は、女性社員が多いことや、当時は有限会社であったことなど、不利な条件にあったにもかかわらず、それからは不思議と業界でも大きな会社へと成長して行きました。それは私に能力があったからではありません。私は本当に小さくて弱い者です。ただ私はその都度その都度、神から示されたことに『はい。主よ、従います』と言って今まで従って来ただけなのです。神は自分を主として恐れ、従順である者を本当に祝福して下さるお方です。」

  人生の土台を、イエス・キリストにした人の幸いがここにある。

 

 .建物の材料をみことばに置く!

  次にパウロは3:12で、キリストを土台とした人は、どんな材料を使って家を建てるべきかについて語っている。金、銀、宝石、木、草、わらといったものは、家を建てる材料である。

 「各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。」3:13   

 「その日」というのは、キリストの「再臨の日」のことで、私たちが主イエスを顔と顔を合わせて見るその日のことである。

 そしてその日は、私たちクリスチャンが「審き」を受ける日でもあるというのである。この審きは天国に行くのか、地獄に行くのかという種類のものではない。クリスチャンはみな天国に行けるのだから。  ではここで言われる審きとは?  

 「…この火がその力で各人の働きの真価を試すからです。」3:13

 「この火」とは、いわゆるゲヘナ(地獄)の火ではなく、本物かどうかを試す、精錬する、純粋なものと不純なものとを分ける「火」なのだ。ある金属から純粋なものを取り出す時には、何度も何度も、高温で熱しますと、不純なものが消えていく。その「火」なのである。

 

私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。  Ⅱコリント5:10

 「さばきの座」というのは、その人が天国にふさわしいのか、地獄にふさわしいのかという裁きではない。そこに集められた人たちは皆クリスチャンなのだから、みんな天国に行くことは決まっていおり、ただその人が与えられた命や人生を、神のためにどのように使ったのかを評価される時だということを彼は言っているのである。

  テレビのニュースなどで、美人コンテストを見たことがあるかと思う。美人コンテストに参加している人はすでにみな美人なのだ。つまり美人コンテストというのは、美人かどうかを決めるコンテストではない。とにかくあれに出られた女性たちは、すでに皆甲乙つけがたい美人ばかりなのだ。あとはその人が持っている、特技であるとか、とにかく”内面性”をアピールするコンテストである訳で、、、一緒にしては申し訳ないが、「審きの座」もこれに似ている。 3:13→のこの日の”審きの場所”に集まっているのは、実は、もう全てが「義人」ばかりで、みんな救われた人たちなのだ。つまり、その場所に集まったクリスチャンたちが、与えられた永遠の命を、この地上でどういうふうに神と人々のために使ったかを評価される所がこの場所なのである。

 

 3:12→「金、銀、宝石」は永遠に残るもの…。他方「木、草、わら」は、瞬時に火で燃えてしまうものだ。それは私たちが何かをする時の動機、つまり神を喜ばせるために成されたものなのか?ただ自分の喜びのためになされたものなのか? 動機が問われている。

 ▼あるアメリカ人の宣教師は、アフリカで長い間働いたが、彼がいつも自分自身に言い聞かせていた言葉があった。それは、「ただ一つのいのち、それはすぐに過ぎ去る。ただキリストのためになした事柄だけが、いつまでも残る!」

 …クリスチャンとして神を信じてから天に帰って行くまで、この地上で何一つ神に喜ばれることをしたことがない、という人がいたとすれば、その人は、天国に行くだろうか?天国に入れる。だからあなたが、今日から死ぬまで神のために何もしなかったとしても、キリストを信じていれば間違いなく天国に迎えられる。

 でも、こうも15節には書かれている。

 「もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、(かろうじて)火の中をくぐるようにして助かります。」

 どんな形でも天国に入ることが出来るのなら、その人は人生の成功者と言えるのだろう。でも、私たちはそんな火事場で焼け出されたような姿で天国に入ることを望むであろうか?火にも焼け残る立派な建物を、主の前に持って行きたいと思われないだろうか?

   ただ、イエスを信じるだけで、私たちは罪赦される。永遠のいのちを持って、死後、天国に行くことができる。このことは、「神の一方的な恵み」なのだ。私たちに何の行ないも、要求されていない。 ただ、パウロがここでチャレンジを促しているのは、「ただ自分だけが救われて良かった。」「ああ自分の家族も救われた。もうこれでいい。後は天国に行くのを待とう。」「罪も赦されたし、平安だし、問題もそんなにないし、後は天国を楽しみに待っていよう」と言って座り込んでいるクリスチャンに対してなのだ。

 

 .人生の報いは死後にある!

  では、私たちはこの神の火に耐えうるような建物を、具体的にどのようにして建てることができるだろうか?

  こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。Ⅰコリント13:13  

 キリストを信じる信仰のゆえの行動、キリストにある希望に支えられた行為、キリストの愛を映し出すようにして、あなたが誰かを愛したこと、それが、3:12→で金、銀、宝石に例えられる材料なのだ。焼き尽くされることはなく永遠に刻まれる、残るものである。パウロは、その中で最もすぐれているものは「愛である」と言った。この愛は「アガペー」という言葉が使われており、「一方的な、無条件の、見返りを期待しない愛によって、あなたが誰かを愛した時に、それは永遠に残る」と言われたのである。

  ▼かつて一つの事件があった。1954年9月26日、台風15号が日本列島を縦断した。青森と函館を結ぶ”青函連絡船”の「洞爺丸」が、この台風の直撃で沈没した時、乗船していた1,155人もの命が失われるという未曽有の惨事となったのだが、この中には2人のアメリカ人宣教師がいた。

  船が傾いて沈みそうになった時、乗客たちは身近にあった救命胴衣を身につけて、海に飛び込み始めた。この宣教師たちも、側にあった救命胴衣を身につけて飛び込もうとしたのだが、その時、自分たちの前に若いカップルがパニックに陥っているのを見た。この二人を見た宣教師たちは自分の身につけていた救命道具をすぐに脱いで、二人のカップルに差し出した。そして、救命胴衣を渡しながら彼らはこう言った。「どうぞ、これをお使い下さい。これからの日本は、あなた方が作り上げていくべきです。そして、もし、あなた方が助かったら是非教会に行って下さい。」と…。どこの誰だか知りもしない、初めて会った人たちにだ。その行為によって、自分たちの命を失うであろうことを知りながら。。。なぜ、彼らはそんなことをしたのだろう?

 宣教師にも家族がいた。まだ小さな子供たちもいた。彼らはアメリカの名門エール大学やカナダのトロント大学を出た優秀な人たちで、将来を嘱望されていた若手のホープたちだった。彼らは、はるばるアメリカからやって来て、これから日本をはじめアジア各地で神様のために働こうとしていた人たちだった。まだ死ぬには余りにも早過ぎる。では、なぜ?

 彼らは、カルバリ山の十字架上で自分の為に示して下さった”神の愛”を十分に知っていた。彼らは思ったのではないだろうか?「…もしも、イエスがこの場所におられたとしたら、きっとイエスはこのようにされたに違いない…」。イエスがなさろうとしたことを、自分たちもするだけだ。それだけだった。何の見返りもない。「ここで、このことをすれば、私たちの名前は後世に残るだろう!」 そんな計算は働かなかった。なぜなら、若者たちだって死ぬ可能性があったから…。救命道具を着けたこの若者たちが死んでしまえば、この美談など誰も知らないで終わってしまっていたはずだから…。また、もし助かったとしても、彼らがこの時の物語を誰かに話す可能性が、必ずしもある訳ではなかった。助かって約束通りに教会に行ってくれるかどうかだって分からない。でもこの宣教師たちは、イエスだったら、どうされるか。イエスがなさるだろうと思われたことをしただけなのだった。

  今、この二人の宣教師はどこにいるのだろう?天国にいる。

 もちろん、全ての人がこのような事件に遭遇する訳ではない。私たちの殆どは、このような劇的な場面に会うことなく、天国に帰って行く。だが、たとえ平凡な出来事の中に置かれているとしても、私たちは、この”主の愛”で人々を愛することができるはずだ。

  ▼またある宣教師の話。その頃の彼には、まだ小さな四人の男の子がいた。二~三日の伝道出張に出かけて週末に帰って来ると、その四人の男の子たちが玄関に元気に迎えに走って来てくれたそうだ。奥から次々に走って来て、「お父さん、お帰り」。一番上の長男が、お父さんのカバンを持って奥に走り去る。次に二番目の息子は、お父さんの上着を脱いで持って行く。三番目の息子は、お父さんの帽子をつかんで持って行く。すると四番目の息子は何もすることがない。いつもお兄ちゃんに先を越されてしまう。でもお父さんが帰って来たことを、何とか歓迎したいと考えていた彼は台所からジュースを入れて持って来た。「お父さん、お帰り!」 自分で考えたのだから得意げだった。でもさっきまで泥遊びをしていて、手が泥だらけで、しかも「どうぞ、お父さん!」と言った時、その親指がコップの中に入っていて、見るからに汚かった。しかし父親はそのジュースを心から喜んで受けとって一気に飲み干した。なぜ? それはこのジュースに末息子の愛が入っていたから。だから美味しく飲めたのである。

  同じではないだろうか? 私たちの神に対する奉仕は、泥だらけで不完全なものではないだろうか?はた目にはそんなに麗しい奉仕でないかも知れない。でも神様は、そこにたとえ一滴でも愛が入っているならば、永遠に残るわざとして、神は覚えて下さるのだ。「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているものは愛です。」それが、「金であり、銀であり、宝石」である。

 

たとえ小さくても主にある者として愛を込めて何かをしたいと願って歩むなら、そんな私たちの行為は小さくはあっても、いつまでも主の前に覚えられている。私たちも小さくはあっても良き愛のわざという家を建設して、この世を去って天国に行きたいものでありたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

2017年1月1日 元旦・新年礼拝  さあ、湖の向こう岸に渡ろう!ルカ8:22~25

人は変わる。人の言葉も変わる。しかし神は変わらない。神のことばも変わらない。だから神への信仰に固く立って今年も歩き始めよう。

.キリストを見上げた時、すでにもう嵐は静められていた!

嵐を静められた時の主イエスのみことばと御業とが記されている。並行記事はマルコ伝4:35~41

その頃のある日のこと、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り、『さあ、湖の向こう岸に渡ろう』と言われた。それで弟子たちは舟を出した。舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた。ところが突風が湖に吹き下ろしてきたので、弟子たちは水をかぶって危険になった。…ルカ8:22~23

  この湖はガリラヤ湖である(8:26)。主と弟子たちが一緒にいた岸辺から、向かうべき場所である対岸の地ゲラサ地方までは、10キロほどの距離だったと考えられる。ガリラヤ湖は長い間、漁師として生計をたててきたペテロやヨハネ、アンデレにとって、ついこの前まで自分たちの仕事場であった湖である。だから彼らにとってはこの程度の船旅、あっという間の短時間で終わるはずであった。          ところが…である。 対岸が間近に迫った頃、…突如、激しい突風が吹いて来たのである。にわかに、波が激しく立ち騒ぎ、舟が沈みそうになったのだ。 ガリラヤ湖という湖は周囲が山に囲まれていて、しかも、海抜下約200メートルに位置する世界でも有数の湖面が低い湖なのである。ちょうど“スリ鉢底”のような地形をしていて、“地表の温度”と“水面”温度との間に著しい温度差が生じる時、季節によっては異なるが、夕暮れに山からの“吹き降ろしの風”が突風となって、湖面を駆け抜けることがしばしばあるのである。今回のこの湖の気象状況については熟知していた彼らをしても別格であったようなのだ。

▼NHKテレビの“釣り番組”に「釣り人万歳」という番組がある。「釣り紀行」といった感じの番組であって、釣った魚を料理して、おいしく食べたり、その港町の風情や風景を楽しんだりといった、割と気合の入った番組なのだ。“釣り兄貴”と呼ばれる“釣り師のプロ”と“芸能人”などの“素人”が一緒に船に乗ったりして釣りを楽しむのだが、その掛け合いなどが何とも楽しい。  そんな中で私が印象的に感じることが一つある。…それは、船長や船頭である人は、例えば海上に雲が湧き出て来て、波がざわつき、うねりが出始めると、「今日はもうこれで終わりじゃ!」と言ってすぐに仕事を切り上げてしまうということだ。素人の釣り人は「もう少しぐらいさせてくれ!」と願うのだが、「絶対駄目じゃ!」と言いながら、あっという間に港に引き返してしまうのである。安全最優先!それがプロの流儀なのだ。釣れていようが、なかろうが関係ない。人命最優先…それがプロである彼らの“仕事の流儀”なのである。つまりプロは“危険への認知力”が極めて高いのだ。彼らは、自然の恐ろしさ、凄まじさ、冷酷さをよく知り尽くしているのである。更に彼らは、その危険を回避する道もしっかりとわきまえている。       そして…この時のペテロやヨハネ、アンデレたちもそうであったはずなのだ。漁のプロフェッショナルであった彼らが、「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです!」ルカ8:24  と絶叫しているぐらいなのだから、この嵐は彼らの想像を超える程に凄まじいものであったに違いない。   「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか?」マルコ4:38 

  だが、この時の、主イエスの御姿に目を転じてみよう。主イエスはこのような最中、「ぐっすり眠っておられた」8:23  というのだ。舟は縦に横に上に下へと激しく翻弄され、男達は船から振り落とされないように互いに掛け声を掛け合いつつ、舟に侵入する水をかき出し続けていた。「舟は波をかぶって水でいっぱいになった」マルコ4:37)。 そんな時、主イエスは熟睡しておられたのである!  “まことの平安”というのはこういうものなのだろう。そういえばあのクリスマスの夜も同じだった。世相は非常に騒がしく、暗く、危険な時代であったあの時、幼子イエスは、静かに馬小屋の飼い葉おけにスヤスヤと眠られていた…。イエス・キリストにある平安とはこのような、“揺り動く中での不動の平安”、嵐さえも打ち破れない“静かな平安”なのだろうと思わされる。

   弟子たちに叩かれるようにして起こされた主イエスは起き上がると、風と波とを激しく叱りつけて、静められたのである。「黙れ、沈まれ!」…すると風はやみ、大なぎになった マルコ4:39  それから、おもむろに主は弟子達に言われた。「あなたがたの信仰はどこにあるのです?」ルカ8:25  「どうしてそんなに怖がるのです。信仰がないのはどうしたことです?」マルコ4:40  このお言葉は、信仰があればこのような事態であっても恐れ、あわて、うろたえることはないということなのだろう。そして、キリストは“信仰の大安心”の姿を、ご自分の眠っている姿を通して弟子たちにお示しになっていたのだろう

   だが現実的に、そんなことが平然とできるものだろうか?むろん私にそんな自信はない。もし、自分がこのような状況に陥れば、同じくこの弟子たちのように大いにうろたえ、大いに恐れ惑い、「イエス様、主よ、神様、何とかして下さいよ!」そう叫ぶに決まっている。それじゃあダメなのか?…そうではない。断じてそうではないのだ!主イエスは、そう祈り願うことをダメだ!と仰ってはおられないのだ。ここで主イエスは、「あなた方の(私への信仰(深い確信・信頼)はどこに(あるのか)吹っ飛んでしまったのか?」8:25  と、ただそれだけ言われたことに注意しなければならない。

主はここで、「私にすがるな!」と言われてはいない。そうではなく「あなた方は、私がここに居る。あなたがたと共にいるという事実(わたしがインマヌエルの主であること)を忘れていまいか?」そう言われたのだ。なぜ、私から目を離して、嵐や、波や、舟に入ってくる水、傾きかけた舟ばかりを見ているのだ?私にのみ目を向けよ。私の言葉を聞くのだ。私はインマヌエルの神なのだ。私の他に神はないのだから…。

だが今、ヤコブよ、あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな、わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎる時も、わたしはあなたと共におり、川(大河)を渡る時も、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。イザヤ43:1~3

  あなたはやむなく火の中を歩まねばならない時もあるだろう。あつ過ぎて火傷を負ってしまいそうな時もあるだろう。だが、炎が決してあなたに燃えつかないよう私はあなたを確実に守る。なにゆえ? 私があなたの神であるからだ。あなたは私と共にいなければならない存在だからである。私があなたと共にいるからあなたは安全なのである。私、インマヌエルの主である私に目を注げ、私のことばに心を留めよ。主はそう言われているのだ!   主イエスは言われた。「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう!」8:22  だから何があろうとも大丈夫なのだ。そのことを知る為、彼らは主によってわざわざこの訓練のシーンに導かれたのだったのだ。そしてこの訓練の場において、彼らは「インマヌエルの主」の恵みを知ることができたのだった。「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなた方を子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」ヘブル12:7

もう一つ、大事な点、キリストを見上げた時には、嵐はすでに静まっていた!という事実である!

  主イエスが風と荒波とを静められたことと、「あなた方の信仰はどこにあるのですか?」と言われたことの、順序が大切だ。弟子達に主は、「あなた方の信仰はどこにあるのです。」と言われた。だが、このおことばは、主イエスが神の子としての力をもって、風と波とを静められた後に弟子たちにかけられたことばなのだ。主は、ご自分に助けを求めて来た弟子達の求めを退けて「あなたの信仰はどこにあるのか?」と言われたのではない。そうではない。主は、弟子達の助けを求める叫びを聞かれたのだ。だから起きられた。イエスは、彼らのことばをしっかりと受け止めて下さったのだ。そして実際に嵐を静めて下さった。その後で、「あなたの信仰はどこにあるのか?」と言われたのである。つまり、主イエスの「あなたの信仰はどこにあるのですか。」という言葉は、既に弟子達を安全な所に移して下さった上でのことばだったのだ。       どうだろうか?あなたもあなたの信仰はどこにあるのですか?」との神様の言葉を聞くことがあると思わないか?本当に、こんな情けない信仰でどうするのか、そう思うことだってある。だが、私たちはその時むしろ大いに喜ぶべきはないのか?何故なら、その言葉を聞いた時は、すでに神様は私たちの為、風も波も静められた後であるからだ。

そして、そのような経験を幾度も重ねていく中で、私たちは「主が我らと共におられる」、インマヌエルという事実がどんなに力ある平和をもたらすものであるかを、知らされていくのである。何度も何度も「あなたの信仰はどこにあるのですか?」と言われながら、まことの信仰の力、信仰の平安へと導かれて行く…。それが私共の歩みなのだろう。主イエスと共にいても、嵐に遭うことは多々ある。だが、主イエスが共におられるから大丈夫!このインマヌエル信仰を持ち続けたい。

.キリストが「さあ、行こう」と招かれた船路なのだからこの船旅は絶対大丈夫だ!

あなた方は私の証人、―主の御告げ―わたしが選んだ私のしもべである。これは、あなた方が知って、私を信じ、わたしがその者であることを悟る為だ! イザヤ43:10

 ここで、もし弟子達が主イエスを起こさず、主イエスが眠り続けていたとしたら、この舟はどうなったか?嵐は止まず、水は舟の中に入り続け、弟子達は必死に水をかき出し、舟をこぎ続けた。しかし、弟子達の努力のかいもなく、この船は沈み、弟子達は全員、おぼれ死んだ。そういうことになっただろうか?決して、そうはならなかったはずだ。何故なら、この船旅は復活の神イエスキリストが招待したものであったからだ。この舟には、主イエスが乗っていたから。主イエスが乗り込んだ舟。それは沈まぬ舟だ。この舟は、主イエスが共におられる以上、決して沈まない。主イエスが「向こう岸へ渡ろう」と言われた以上、神が最終責任を取って下さる。試練はあるが、やがては必ず向こう岸へ着くことになっている。そうなのだ。

 そしてこの舟こそは、教会を指している、そう教会の長い歴史の中で考えられてきた。教会のシンボルは今や十字架であるが、古くは舟も又、長きに渡って教会のシンボルとして使われてきた。主イエスが乗り込まれた沈まぬ舟だ。我々は主の日の礼拝に集う度に、この沈まぬ舟に乗り込み向こう岸に向かって旅をしているということなのだ。この教会が「沈まぬ舟」である。この「沈まぬ舟」に乗っている私たちも又、あの弟子たちと同じように、決して沈むことも、溺れることもない。インマヌエルの船は、私たちの人生は決して沈まないということを意味している。 勿論、イエス様がこの舟に乗り込んでいるから大丈夫だと言って、嵐が来ても何もしないで、お祈りさえしていれば良いというのではない。私たちは「向こう岸へ渡ろう。」という、主イエスの命令を受けているのでありますから、嵐の中も必死に舟をこぐのです。水が入ってくれば、必死で水をかき出すのです。向こう岸に向かって舟を進ませていかねばならないのであります。主イエスが共にこの船には乗り込んでくださっているのだから、決して沈まないことを信じて、大安心の中で、為すべきことを為していく。船を向こう岸へと漕いでいく。それが私どもの為すべきことなのです。

.キリストという船長の舟に乗って生活していることを覚えよう!

 「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう」という主イエスのお言葉は、まことに象徴的である。向こう岸とは、まさに神の国を指しているのであろう。私共は、向こう岸を目指して、この一年、主イエスが乗り込んで下さったこの舟に乗って、精一杯舟をこいでいきたい。嵐が来ても水が入ってきても、この舟は沈まないのだ。私共はこの一年の間に、病気になるかもしれないし、ケガをするかもしれない。思いもかけなかったような困った出来事が起こるかもしれない。しかし、大丈夫。主イエスが共におられるのだから。この舟も、この舟に乗っている私共も、決して沈まないのである。インマヌエルがもたらす、大安心の中で、この新しい一年も歩んで行きたいと心から願う。

 

 

 

 

 

 

 2016年11月20日  めぐみ礼拝   あなたの探し人がここに!

 

まことに神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を探し出し、これの世話をする。 エゼキエル34:11

わたしは失われたものを捜し、迷い出た者を連れ戻し、傷ついた者を包み、病気の者を力づける。わたしは肥えた者と強い者を滅ぼす。わたしは正しい審きをもって彼らを養う。 エゼキエル34:16

私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。Ⅱ・テモテ2:8――

 

あるクリスチャン精神科医のお話し   「老いてもなお元気な人は、“三つの神経”が発達している」と言う。…“三つの神経”

①“運動神経”。 スポーツが得意で、この神経がしっかり鍛えられている方は、歳を取っても元気であり人生に有益だ。

“反射神経”。“反射神経”が良い人は、たとえつまづいてコケたとしても、上手なこけ方ができ、大ケガには至りにくいというわけである。

さて、この先生によれば、一番目に挙げた“運動神経”に優れ、“反射神経”が発達していたとしても、それで人生万歳なのではない、と言われる。

本当に人生を幸せに、上手に生きようと思うなら、③の神経、それは、神様への“感謝神経”これが一番大切だ! 

人間は感謝しているとき、心まで喜ぶことができる。人の心と体はつながっていて心が喜ぶ時、体も喜ぶのだ。

いつも喜んでいなさい。全てのことに感謝しなさい!  I テサロニケ5:16~18 これは逆にも読めるわけで「全てのことに感謝して生きる人は、いつでも喜んで生活ができる!

天地をお造りになった真の神様は、私たちに素晴らしい喜びのニュース、グッドニュースを下った。この世界にはバッドニュースが満ち満ちているが、霊的な耳を澄ませば、グッドニュースが聞こえてくるのです。聖書はこれを「福音」と呼んでいる。「イエス・キリストの福音」である。私たちが失望や打ち倒されないように、支えるために神様が用意された。

 

私の福音に言うとおり~ダビデの子孫として生まれ、~死者の中から、~よみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」 Ⅱ・テモテ2:8

 

~第一に、ダビデの子孫として生まれたキリストをいつも思う!

ダビデはキリストより1,000年前にユダヤの国を治めた王様であり、神様はこのダビデ王に沢山の約束を与えられた。その最大級の約束はやがてダビデの子孫から、救い主キリストが生まれるという約束であった。その約束通り、ダビデの家系の中から、しかも処女マリヤからお生まれになったのが、イエス・キリストである。これを「受肉」と言う。それだけではなく旧約聖書の中には、実に300箇所以上もキリストに関する予告が書かれている。これを「預言」と言う。この300以上の預言全部が、イエスの生涯において実現したのだ。

▼聖書は言う。私たち人間が、ダビデの子孫としてお生まれ下さったイエス・キリストを思うことで、神の約束の確実さを確信できるようになる。そして「感謝の心が湧いて来る」と教えている。そしてそうすることで私たちは「強くされる」と教えている。

 

~第二に、十字架の上で死者となったキリストを思いなさい!

小学生ぐらいの子供が、動物園のカバの檻の前で熱心にきれいな小鳥の絵を書いている。「カバを見ながら小鳥を描くなんて、なぜなんだ?」そう思って目を凝らして見ると、小鳥がカバのお尻の上にとまっているではないか?小鳥の美しさに心を捉えられた少年の目には、カバのでかいお尻などまるで眼中にはなかった。…人は目の前にどんなことが起ころうと、どこに焦点を合わせるかで、見えるものと見えなくなるものが決まる。

人生、目の付け所が大切なのだ!

地震や、火山の爆発や、大雨や降雪、大陸移動…などによって生じる気候変動や大陸移動は、時に災害と呼ばれ「ありがたくない」「迷惑しごく」と思われがちだが、一方、地球学者や天文学者たちから見れば、生命体が存在するための主要必要条件であるかも知れないと分かってきた。

私たち一般人と専門的学者の視点の違いで全く異なる風景が見える訳だ。

十字架にかけられたイエス・キリストに焦点を絞り込んで、キリストを想いなさい。」と。そうする時に私たちは、様々な思い煩いから解放されることができるのだと。

キリストは、私たちのどうにもならない罪と、私たちにひどいことをしてきた人のどうにもならない悪の両方を背負って、身代わりにそれらの罪の罰を受けることで、二度と思い出す必要のない永遠の彼方へ完全に葬り去って下さった。もうそこに帰る必要はない。過ぎ去ったこと、ケリのついたこととして、もうとどめを刺して下さったから。罪責感や不全感や、赦さない思いに縛られそうになったとき、この十字架のイエス・キリストに私たちの心の焦点を合わせると不思議に力が湧いてくる。

 

~第三に、死者の中からよみがえったキリストを思うことで、復活の力を思い出すことが出来る(人生の終着地が待っている)!

 ▼第三に、キリストは死んで三日目に復活することで、死そのものを滅ぼしてくださったことのゆえに、ほめたたえられるべきなのだ。

飛行機はただ飛ぶということに目的があるのではない。飛行の目的は、目的地に無事に到着することにある。人生も同じで、次の目的地に近づいて来るにつれて、いろんなことができなくなる。老いて、目が見えなくなったり、耳が遠くなったり、記憶が失せていったり、体が効かなくなったり…と。でも、それらの制限は、聖書によれば死に対する備えをさせるためのものなのだ。

あなたには、ご自分の魂の目的地がはっきりと見えているか?キリストは、天国という究極の目的地に行くための準備を、あなたに代わって成し遂げて下さったお方なのである。そして、もし今から行く場所が天国であるなら、死は何も恐れる必要がない。キリストは、この生ける希望をあなたに提供するために来られたのだ。

あなたはあなたの神に会う備えをせよ。 アモス4:12

ダビデ:「主よ。朝明けに私の声を聞いて下さい。朝明けに、私はあなたの為に備えをし、見張りを致します 詩篇5:3

私の父の家には、住まいが沢山あります。もしなかったら、あなた方に言っておいたでしょう。あなた方の為に、私は場所を備えに行くのです。  ヨハネ14:2

 

 

 

 

 

 

 

 

2016年11月13日 

「彼らの力の源泉は!」   ダニエル1:3~17

 

神を信じるクリスチャンの力に満ちた生き方はどこから来るのだろうか?クリスチャンの力の源泉を今朝、ダニエル書を通して教えられたい。

 

 

 

.幼少期のダニエルを育んだ人々がいた!

 

ダニエルは、ユダ王国でヨシヤの治世時に生まれた人だ。世の中は悪い方へと激動し、彼と三人の友らは、わずか15年間程度しかユダでは過ごせなかった。だが彼らの堅固な信仰は、ユダでの幼少年時代にしっかりと培われていたのだった。

 

彼の育った時代が、ユダヤ屈指の善王と知られたヨシヤ王であったことも幸いした。ヨシヤは、BC7世紀の初めに堕落し切ってしまっていたエルサレムの宗教改革の為に立ち上がり、またちょうどその頃、エレミヤが預言者としての活動を始めていた。このヨシヤやエレミヤ、そして恐らくは貴族階級にあったダニエルの父親らによる宗教改革の為の活動が、少年期を過ごしていたダニエルに、大きな霊的、人格的な影響を与えていたと思われる。

 

彼らからダニエルは、「人生における人と神との垂直的関係」「神への従順性」の大切さについてよく学んだに違いない。

やがて彼はいかなる逆境の中でも、「神に愛されている人ダニエル10:11 と呼ばれるようになる。 

 

 

 

「三つ子の魂100まで」ということばがある。幼いダニエルの魂に、不屈の、そして崇高で高潔な霊的スピリットを吹き込んでくれた親やヨシヤやエレミヤの偉大さがあることを忘れてはならない。ひるがえって、混迷の現代を生きる私たちも子供教育、分けても「霊的教育」の大切さを覚えるべきである。


 

ヨシヤ王は宗教改革の目的を果たせないまま、メギドの戦いにてエジプト王パロ・ネコの手によって殺された。 これによって王位を手に入れたエホヤキムは最悪の王となり、この国は滅びに至る。バビロン王ネブカデネザルがエルサレムを包囲。BC・605年…1回目のバビロン捕囚の始まりである。ダニエルらはこの時拉致されバビロンへと連れて行かれたのだ。

 

約20年後の586年、エルサレムは破壊された。ユダヤ人たちの夢は潰え去り、希望はなくなったかに見えた。…だが消えたのは目に見える都だけであり、「目に見えないもの」は残っていた。捕囚の民とされたダニエルらに「夢と希望」は引き継がれていたのだった。

 

 

 

「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただ一人である。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私が今日、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子供たちによく教え込みなさい。あなたが家に座っている時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これを唱えなさい。これを印としてとしてあなたの手に結び付け、記章として額の上に置きなさい。」 申命記6:4~8

 

 

 

“創造主である神”への信仰は、環境によって左右されるような程度のものであってはならない。彼らには「知識とあらゆる文学を悟る力と知恵」、「全ての幻と夢とを解く力」が与えられていた。 ダニエル1:17  これらは生まれつき備わっていたのではない。彼のそういう人格を作ったのは、神に用いられた彼の離れ離れとなった家族であり、預言者エレミヤや、ヨシヤであったのだ。そんな風に培われたダニエルの信仰はバビロンと言う敵地という厳しい試みの中でいかんなく発揮されたのだ。

 

 

.彼は祈りの向こうにキリストを仰いでいた!

 

 ダニエルは祈りの人だった。いつも聖なる真の神を覚えて、エルサレムを思い礼拝を捧げた。どこに行こうが住もうが、力の源は神であると固く信じていたからである。それは、バビロンの王以外を礼拝したものは死刑になると言う御触れが出た時も少しも変わりはしなかった。彼は決められたとおりに、二階に祈りの部屋に上がり、その部屋のエルサレムに向かって開いている窓を開けて、ひざまずいて日に三度、神様に祈りと賛美を捧げ続けた。 彼はいつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。ダニエル6:10

9:3以降に見られる、ダニエルの祈りを見るといい。 9章の定めの70週の箇所には、ダニエルの嘆願の祈りが述べられている。

私たちの神よ。今、あなたのしもべの祈りと願いとを聞き入れ、主ご自身のために、御顔の光を、あなたの荒れ果てた聖所に輝かせて下さい。

私の神よ。耳を傾けて下さい。目を開いて私たちの荒れすさんださまと、あなたの御名がつけられている町をご覧ください。私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行いによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。・・・ダニエル9:17~23   

 そして10:1以降で彼はキリストに出会っている。それが彼を奮い立たせていたのである。

「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。」彼が私にこう言ったとき、私は奮い立って言った。「わが主よ。お話しください。あなたは私を力づけて下さいましたから。」ダニエル10:19

 

 

 

. 正しい終末観にダニエルは支えられていた!

 

ダニエル書は、終末期を強く意識させられる預言書である。彼は、終末期までの世界の歴史を前もって示されていた人であった。私たちは本書を読むことで、全ては神の主権外にあるものではないことを知らされるのだ。神は「始めであり、終りである」お方である。そして終りは終りで終わらないのだ。この世の終わりは万物の初めであるからだ。これ以上の希望があるだろうか?そしてこの希望こそが、患難の中を歩む神の民を慰め、人生にパワーを与えてくれるのだ。

 

 ダニエルは屈しなかった。禁令を破り、名前を変えられようとも、異国の文化をいくら押し付けられても、彼が信仰者の誇りを失うことはなく、いかなる時にも主への礼拝を続けた。なぜなのか?一つの理由として彼が終末をよく知っていたことがあげられると思う。「、未来を、そして終りを知る者は強い!神が自分の未来をご存知であることを知る者は、人生本当に強いのだ。

 

なぜなら、神は私たちの心より大きく、そして何もかもご存知だからです。Ⅰヨハネ3:20

 

ダニエルのように、将来を信じ、天国を知って、神を畏れつつ御前に静まり、御言葉を聞き、祈る生活は大切だ。この信仰の生活が彼を支えた。だから、彼ら四名はこの異教の地で生き残ったのであり、どこへ行っても神の民として守られ、証しができたのである。

 

 

 

秋のグレース会修養旅行は「天草」だった。二日目、私たちは大江天主堂という山の上に立つ教会を見学した。白亜できれいな会堂であるが、この会堂はこの村の信者たちがお金を集めて建てたものではなく、ガルニエという神父が一人で建てたものだと書かれてあった。この人は昭和15年、80歳で亡くなるまで一度も母国フランスに帰らず、この教会を守り続けた人であった。この会堂の総工費のうちの大部分を、明治25年にこの地に着任以来、粗衣祖食で貯めたお金を自前で出して建てた会堂であった。

 

帰りに立ち寄ったもう一つの崎津天主堂。16世紀の初めこの崎津にやって来たアルメイダというフランス人宣教師よって始められた。徳川時代、禁教令が出ると徹底的な迫害を受けた。明治期に入り、禁教令が解かれ、オーガスチン・ハルブという宣教師がこの地にやって来ると、彼の周りに隠れキリシタンが続々と集まって来た。説明文の傍に簡素な履歴が記されていた。「1864年、フランス・セズに生まれる。」とある。今の会堂が出来上がるのは1934(昭和2)年。その後、日本は戦争時代に突入する。戦争時代もハルブ神父はここに踏みとどまり、敗戦の年の一月、「当地」で昇天。81歳であった。教会の正面に祭壇があった。私たちの教会で言えば「講壇」である。「正面の祭壇のある場所で、迫害時代に激しい踏み絵が毎年行われていました。」説明書きがあった。迫害を前提とした踏み絵がなされた場所にわざわざ祭壇を据えて教会は建てられていたのである。終末期を知る者だけができる生き方ではないだろうかと私は思った。

 

異教の地でも捕囚の地でも、余すところなく神御自身の力と栄光は発揮される。礼拝する者を主は助け、彼らを守られ、苦労は誰よりも多かったが、やがて彼らは安住の国へと導かれて行ったのである。

 

 

 

. ダニエルの祈りが彼を勝利へと導いた!

 

 祈らなければ何も始まらないし、何も与えられはしない。ダニエルは嘆願の預言者と言われている。黙っていて彼は霊的な賜物をいただいたのではない。神に嘆願したから受けたのである。9章の定めの70週の預言箇所には、ダニエルの嘆願の祈りが述べられている。(9:17~23

 

わたしたちも祈る者でありたい。今まで主はわたしたちの祈りを聞いて下さった。ナルド会の映画集会にも久来会者が四名も集って下さった。感謝である。祈りは聞かれることを覚えたい。ダニエルのように、神様に向かって心の窓を開いて祈ろう。恐れることなく。人の顔ではなく、神のみを畏れて今週も歩む者でありたい。  

わが主よ。この終りはどうなるのでしょう。」彼は言った。「ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。・・・

「幸いなことよ。忍んで待ち…達する者よ。・・・あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」ダニエル12:8~13

 

 

 

 

 

 

 

2016年11月6日

 「たとえ地上の幕屋がこわれても!」

  

☆メインテキスト☆

 [新改訳] コリント人への手紙第二 

 5:1 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。

 5:2 私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。

 [新改訳] 伝道者の書

12:1 あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに。また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。

 

☆メッセージ☆

見ずに信じる者は幸い

神様の御業は、この地上に満ち満ちている

 

パウロは、その宣教の働きを理解されない中、“いつも心強い”と言えていた

Ⅱコリント5:9 そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。

何度も焼かれ、水に浸けられ、打ち叩かれて切れ味の良い日本刀になるように、

パウロは研ぎ澄まされた霊性をもっていた

 

① 私たちクリスチャンにとって、この世界は仮住まい

 この地上の家は傷んでくる

 私たちの身体も衰えてくる

 幕屋、テントにすぎない

 草は枯れ、花はしぼむ。だが、神の言葉は永遠に立つ。

人間の文明・文化によらない、天にある永遠の家

 Ⅱコリント5:2 私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。

 

② 私たちの人生は、天の御国につながっている

伝道者の書 12:26は、老後について書かれている

栄華を極めたソロモン王も、老後について、恐れ、闇、不安、があると記している

しかし、伝道者の書 12:1 あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに。また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。

伝道者の書 12:13 結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。

  

③ 私たちの人生は、これからだ

Ⅱコリント5:5 私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。

あなたの復活のために死んでくださったキリスト

死ですらも飲み込むキリストの力

 

 

2016年10月9日

 ポジティブな生き方の勧め!」

 メインテキスト

 詩篇103篇1節~5節

 「わがたましいよ。主をほめたたえよ。わたしのうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。

 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、

 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、

 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。」

 

 ①それは生産的な生き方だから!

 私たちはネガティブな出来事を分析することに長けている。「災いが起きるかも知れない」「大丈夫だろうか?」「安心できない…」。こんなネガティブ思考や言葉が巷には溢れ返っている。特に日本人は最近まで幾度も天変地異に遭遇し、あるいは事故に遭い、辛い目を経験してきた。だから必然的に私たちは、ポジティブに思いを巡らせつつ生活することが困難になってしまっているのだ。

 だが、だからこそ、私たちは、この“心の破滅的傾向”を克服する努力が必要となるのだ。エレナ・ポーターの作品、『少女パレアナ』の中で、孤児となり叔母の家に引き取られた少女パレアナは、人生の様々な問題に直面しながら、牧師であった父親の遺言にあった、「良かった探し」を実践しながら、人生の波を果敢に超えていく。パレアナのひたむきなこの“前向きな思い”は、彼女のみか、かかわる周りの人々の人生を明るく前向きに変えていく。この現象は心理学者たちも注目し、この効果を「パレアナ効果」と呼び、臨床応用されたのである。

 

  毎晩のディボーションの際、「今日一日、良かったと思われることを三つ書き出してみる」ことを提案するのはアメリカ心理学会会長マーティン・セリグマンである。「日記でも大学ノートでも構わない。要は、物理的な記録として『良かったこと』を残しておくことが重要だ。些細な喜びでもいい、感謝でも、ほっとしたことでもいい。どう考えてもその日うまくいったことがない場合、関連現象でも構わない。ただそれだけで終わらず、更に原因を記すことをお奨めする。…」博士はこう提案する。まさに「良かった探し」の推奨である。聖歌642番「のぞみも消えゆくまでに」は、「主の恵み」を数えることを勧めている。この考え方が聖書的であるからだ。「主の良くして下さったことを何一つ忘れるな」(詩篇103:2)とあるように…。私たちはとても忘れっぽい。だから数々の主の恵みを書き出して、さらにその原因・感想を書き記しておくと良い。それはあなたの心を喜ばせ、それを語ることで周囲を明るくする力となるのである。「主の恵み語るは楽し、主はまことの神なれば…」という賛美歌がある。「主の恵み、良かったこと」を書き記す習慣が、私たちの信仰生活には免疫力を与えるのである。

 

②それは自分を成長させてくれる生き方だから!

 ポジティブ(介入)感情は、自分の霊的成長、魂と心、精神の安定を促し、私たちの信仰を後押ししてくれる。ある心理学の研究チームが全米60社で会社に出向き、各々の会社のビジネス・ミーティングで発言された言葉の一つ一つを筆記して調べた。三分の一の会社は業績が上々の会社。三分の一はまあまあの業績、あとの三分の一は業績が悪化していた会社であった。研究チームは、それぞれの会社のミーティングで出された文章を、ポジティブな言葉か、ネガティブな言葉かでコード化して、ポジティブな発言対ネガティブな発言で比率を割り出した。その結果「ポジティブな発言対ネガティブな発言の比率が2.9対1を上回る会社では経営状態が良好で、その比率を下回った会社では悪化している」ことが分かったのである。この比率は「ロサダ比」と呼ばれ、今も様々な会社のチェック機能として運用されている。ロサダ比の注目すべき点は、この比率を、そっくり家庭に持ち込むことができるという点である。家庭においても、「ロサダ比」が小さいほどネガティブ感情が高い家庭であるということになる。あなたの家庭はどうだろうか? 私たちは家庭において、また教会において、この「ロサダ比」を上げる工夫をすべきではないだろうか?

 「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえて下さる。あなたの道を主に委ねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる。主はあなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かせられる。」詩篇3746

 ポジティブ思考は、今や抑うつ患者の特効薬とされている。それは人生の幸福度を高め、満足度を向上させ、より良い学習や創造的な思考を促す助けになることが実証されている。その最も良き場が教会である。聖日ごとに神のことばが語られる礼拝こそ、ポジティブ教育がなされる最先端の場所なのだ。神のことば、聖書から、勇気、赦し、感謝、愛、忍耐、寛容、自制心…といったなどポジティブ効果をあなたにも大いに得て戴きたいものである。

 

③それは自制、根気、勇気を生み出す生き方だから!

 ポジティブな生き方は、私たちの心に自制心、根気、勇気を生み出す。テレビドラマ、爆発的人気を呼んだ「朝が来た」のモデル広岡浅子にも「とと姉ちゃん」のモデルの大橋しずこにも、共通していたものは、人並み外れた好奇心と度胸を武器に、根気ある、愛と勇気に富む利他的人生を送ったことだ。ポジティブに、そして強く、たくましく、明るく生きた彼女たちの心は、時を超えて、私たち現代人にも共感を呼び、大いに元気を与えてくれた。広岡浅子はクリスチャンであった。神のことばに触れる時、人は変えられるのである。

 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」  詩篇119篇105節

 

  

 

 

 

 

 

2016年10月2日

 「耳を澄ませば聞こえてくる!」

 ☆メインテキスト☆ 

 ローマ人への手紙8:18~25

 

①この世界に耳を澄ませば、被造物のうめきと苦しみとが聞こえてくる!

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。  ローマ8:22

「被造物」とは神様が創られたこの宇宙を含めた自然界を表す。聖書は言う。「宇宙が、そして大自然の全てが、今うめき苦しんでいる」

近年、世界中で様々な自然災害が頻発しています。地震、洪水、大台風、津波、干ばつ、、、、

・・・被造物が虚無に服した。 8:20 」とあるように人類の粗アダムが罪を犯したとき、それは始まったと聖書は言う。

土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。 創世記3:17

私たちが謙虚に、自然に宇宙によく耳を澄ませば、被造物のうめきと苦しみが聞こえてくる。

 

②この世界に耳を澄ませば、人間社会の苦しみとうめきが聞こえてくる!

人も、人がつくってきた社会もうめき苦しんでいる。経済格差は拡がるばかり、武力紛争や暴動、テロが世界各地で起こり、多くの人命が失われている。原発事故に放射能汚染問題、、、

この書を記したパウロは期限1世紀(今からおよそ2000年も前)の人であり、現代のこれらの社会問題など知る由もなかった時代の彼が被造物全体のうめき苦しみについて記しているのは驚くべきことだ。 彼は聖書によってこれらのことを知っていたのである。

あなたのみことばは私の足の灯(ともしび)、私の道の光です。  詩編119:105

私たちも人生の羅針盤である聖書に聴き、神のみことばに従って生きるなら、未来を踏み誤ることなく進むことができるのである。

 

この世界に耳を澄ませば、このうめきの向こうに真の希望を知ることができる!

それは、被造物が虚無に服したのが、自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。 8:20

22節には「産み(出産)の苦しみ」とある。出産は喜ばしいニュースだが、出産の前には”陣痛”がある。

出産が近づくにつれ陣痛の間隔は短くなり痛みは増す。子どもが生まれると喜びで満たされ、すべての痛みは忘れ去られる。

”出産の喜び”が”陣痛の激痛”をはるかに上回るからである。被造物全体の苦しみもそれに似ている、とパウロは言う。

今味わっている苦しみは出産を前にした苦しみなのだ。だから、この苦難は私たちにとって20節「望みある苦しみ」なのだ、と。

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。8:19

私たちは来る世で、真の神の子どもとされる日を待ち望みながら今を生きるべきだ。これがクリスチャンの信仰である。

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。8:23~24

 

 

 

 

2016年9月25日

 「私よ。よく聞け、神が共におられるから!」

 ☆メインテキスト☆ 

 Iコリント書10:1~13

 

パウロは、私たちに、信仰者としてのレースを時には自分の体を打ちたたいてもしっかり走るように勧めている。信仰者のレースで途中、落伍者が

多く出ていることは歴史上実証済みだからである。パウロは歴史的教訓として「イスラエル人の出エジプト」を例に荒野における失敗を挙げている。

そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。

というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。

にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。

これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。

Iコリント10:2~6

パウロはコリント教会の人々に注意を喚起している。特に彼らは「偶像礼拝」「姦淫」「主を試みる」「つぶやき」という大罪に陥っていた。

私たちも気をつけなければならない。

 

パウロは注意喚起とともに励ましと慰めのことばを語っている。

あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えられないほどの試練に会わせることは

なさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えて下さいます。 Iコリント10:13

 

①耐えることのできないような試練に会わせることはなさらない!

また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。 マタイ10:30~31

主は私たちの髪の毛の数までも全てをご存知であり、私たちがどの程度の試練に耐えることができるかご存じでオーバーすることはない。

だから私たちは様々な艱難辛苦に遭おうとも必ず耐えることができるのである。

 

②試練とともに脱出の道を備えて下さる!

試練には必ず終わりがくることを覚えるべきである。主がそう言われるのだから試練には必ず解決がある、終わりがあると決めてよい。

 

③神は真実な方ですから!

神はご自分が約束されたことを必ず守る真実なお方である。

耐えられない試練に会わせることはない、脱出の道が用意されている!と主が言われるのだから確かなのだ。

私たちはその真実さに期待して生活しよう。

私たちが試練の時、見放されたように思う時もイエス様は私たちを背負い、ともに歩いてくださっている。

だから人生を決してあきらめてはならない。失望してはならない。 試練の時は自分にこう呼びかけよう。

「私よ、よく聞け。大丈夫、今日も神は私とともにおられる!」

 

 

 

 

2016年9月18日

 「光の子らしく歩む~前向き、肯定的に生きるには!」

 ☆メインテキスト☆ 

あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。

ー光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのですー  エペソ5:8~9

 

①聖霊に満たされて歩む!

私たちはしばしば「おっくう」になり、つぶやいてばかりいる。活気にあふれ、楽しく積極的に、前向きに生きるとこができないのは「私たちが聖霊に満たされていない」からである。

主イエス・キリストは言われた。「あなたがたは、世界の光です。・・・あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」 マタイ5:14~16

「世の光として周りを輝かせて生きる」これが神によって生み出された私たちクリスチャンの本来の生き方でなければならない。

主は私たちに「聖霊に満たされなさい」と命じられており、私たちは聖霊に満たされて生きる必要がある。

満たされた者はキリストの体となり、互いの痛みを分かち合う「愛の共同体」として教会を形成していくことができる者とされる。聖霊は心から主を礼拝する人々に注がれ、注がれた人々は人生が大きく作り変えられていくのだ。

また聖霊はあなたを助けてくれる神である。困難な状況に置かれるときも大丈夫、助け主である聖霊はあなたに力強く働いて下さり、必ず遅かれ早かれ助けて下さる。それが聖霊の役目だからである。

まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。

彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。

あなたは、獅子とコブラを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。 詩編91:11~13

主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。 詩編121:8

 

②聖霊に助けられ、励まされ、守られて人生を歩む!

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。 ローマ8:26

聖霊なる神様は切なる深いうめきをもって、いつも執り成しをして私たちとともにおられる。だから私たちの人生はこの上もなく安心な人生を生きることができる、このことを信じよう。

求めなさい、そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。・・・

あなたがたも、自分の子がパンを下さいというときに、だれが石を与えるでしょう。 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。

マタイ7:7~10

問題がどうしても解決されないとき、私たちは考えるべきである。「私はいつも自分や他の人の力にばかり頼っていたのでは?」

自助努力や世の中の権威、コネなどの力にはすべて”相対的な限界”がある。 一方、天からくる神の力、聖霊の力はどんなコネも人材も必要なく、直接的にあなたのうちに力を付与して下さる。そしてそれはいつも喜びに変えられるのだ。

 

 

 

2016年9月11日

 「天から目を注いで下さる私たちの神!」

 ☆メインテキスト☆ 

詩篇33篇

 

詩篇33篇は、神の目がすべての人々に注がれていることを教えている!

防犯カメラの設置で最近、街中での犯罪が減少傾向にある。人の行動は誰かに「見られている」と感じるとき、無意識のうちに行動形態を良い方向へ変えようとする。 では私たちに目を注いでいる方が、天地万物をお造りになった神様なら?

私たちの全てをご覧になっておられる神様を意識することで、たとえ困難な状況におかれていても、私たちの周囲への行動形態は良い方向へと向かうのではないだろうか。

主は天から目を注ぎ、人の子らを残らずご覧になる。

御住まいの所から地に住むすべての者に目を注がれる。

主は、彼らの心をそれぞれみな造り、彼らのわざのすべてを読み取る方。

・・・見よ。主の目は主を畏れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。 詩編33:13~18

 

詩篇33篇は、だから私たちは、この神を意識して、神を畏れて歩まなければならないことを教えている!

神がすべてをご覧になっておられることに感謝しつつ、この主にお従いしつつ人生を歩もう。

正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。

立琴をもって主に感謝せよ。十弦の琴をもって、ほめ歌を歌え。

新しい歌を主に向かって歌え。喜びの叫びとともに、巧みに弦をかき鳴らせ。

まことに、主のことばは正しく、そのわざはことごとく真実である。

主は正義と公正を愛される。地は主の恵みに満ちている。 詩編33:1~5

「正しい者たち」は別訳で「主に従う人よ」とも訳される。日々私たちにじっと目を注いで下さる神様に「従った」人生を歩めばよいのである。従わないとき私たちは「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました」詩篇32:3  となるのだから。

 

詩篇33篇は、この正義の神を信じ、希望を抱いて生きる者であれと教えている!

見よ。主の目は主を畏れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。

彼らのたましいを死から救い出し、ききんのときにも彼らを生きながらえさせるために。

私たちのたましいは主を待ち望む。主は、われらの助け、われらの盾。

まことに私たちの心は主を喜ぶ。私たちは、聖なる御名に信頼している。 詩編33:18~21テープカットやシャンパンの瓶を船体にぶつけて粉々にする、開店祝いにくす玉を割る・・・これらは「切られ、砕かれ、割られる」損なわれる、破壊される行為だが、これらのお祝いのセレモニー(儀式)は何か新しいことが始まることを表している。

イエス・キリストの十字架の死、という実態は単なる儀式ではなく、私たち信じる者たちに再生力と生きる力を与えてくれる。

人生を生きるための希望と力があなたにも必要なはず。ぜひ十字架のキリストをともに見上げよう。

多くの問題を背負い込み苦しんでいるなら、その重荷を「私に委ねなさい」と神様は語っておられる。

待ち望め。主を。 詩編27:14

 

 

 

 

     2016年9月4

 「不毛な問いかけ人生からの脱出」

 ☆メインテキスト☆ 

 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。

 弟子たちは彼についてイエスに質問していった。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪をおかしたからですか。この人ですか。

     その両親ですか。」 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」

     ヨハネ913

 ある時、生まれつき盲人のこじきをキリストはご覧になりました。弟子たちがキリストに質問しました。

 「先生。彼がもうもくに生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか?この人ですか?その両親ですか?」92

 人生における不可解な問題を目の当たりにするとき、私たちがついしてしまいがちな質問がいくつかある。

 

    ①誰のせいでこうなったのか?

 「自分が不幸になった裏には必ず犯人がいる。」「私が今こうなっているのは誰かのせいだ。」私たちはしばしば「原因論」で事を判断してしまいがち

     である。

 サウル王は若く元気で勇敢なダビデをねたみ、命を狙い続けた。ダビデの人気が気にくわず、「自分の人気が下がったのはダビデのせいだ」と

     考えたサウル王の「原因論的生き方」に対し、ダビデはサウル王を恨まず「主は生きておられる」・・・つまり神の栄光を現わすために自分はある。

     だから主をほめたたえて私は生きる・・・彼は「目的論的生き方」をしていた。

  この盲人がこんな不幸に生まれついたのは「・・いったい誰が、何が原因なのですか?」の問いかけに

  主イエスキリストは「原因論」ではなく「目的論」でもって答えておられる。原因を探っても時間の浪費となり、私たちの心労は増す。

     神が下さった尊い人生のエネルギーは神の栄光を現わすという目的のために用いられるべきである。

 

 ②いつになったらよい状態になるのか?

 主はある時弟子たちにこう言われた。

 「・・・いつとかどんな時とかいうことは、あなた方は知らなくてもよいのです。父が権威をもってお定めになっています。・・・」使徒17

  いつになったらこの病気は治るのか? この問題、いつ解決するのだろう、、、 「いつになったら」という質問は私たちを悩ますことはあっても、

     幸福に導くことはない。自分ではどうにもできないことばかりだからである。

  自分ができないことは素早く手放し、自分ができることにしっかり集中して前に向かって進んでいこう。

 強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるから

     である。 ヨシュア1:9

 と言われる神を信じ「主体的な生き方」をしよう。

 

              ③なぜこうなったのか?

 「なぜ私の身の上にばかり不幸が、、、」「どうしてこのタイミングでこんなことが、、、」不毛な問いかけはやがて人生を打ちのめしてしまう。

     今、起こっていることの意味や理由はすぐには分からないことが多い。

 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたには分からないが、あとでわかるようになります。」ヨハネ13:7

  目の前の出来事が10年後、20年後、どんな展開に至っているかなど今は思いもつかない。しかし、主がそういわれるのだから確かなことなのだ。

 不条理に対するイエスの答え!

 あらゆる不条理と思えることがあるが、あなたの周囲で起きていることすべては「神のわざが現れるための舞台だ」とイエスキリストは言われる。

 「なぜ?」「どうして?」と問うことをやめ、今のつらい現状の中でキリストに力を現わしていただくために、私がキリストに求められていることは

  何か考え、それをしようとすることが大切である。

  天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい   詩編103:11

  この世の様々な問題を心配して、それに押しつぶされないためには、万物の創造主である愛の神を信頼しさえすればよい。

     心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして愛の神を信頼し、義の神を信じて歩もう。

 

 

 

 

 

2016年8月28日

「希望に生きる人生」

☆メインテキスト☆ ピリピ3421

 

①「望み」(希望)に生きる人生とは過去に振り回されない人生である!

「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私は(今は)キリストのゆえに損と思うようになりました。・・・

 私の主であるキリスト・イエスを知っていることの素晴らしさゆえに、一切のことを(今は)損と思っています。

 私はキリストの為に全てのものを捨てて、それらをちりあくた(糞土)と思っています。

 それは、私にはキリストを得、またキリストの中にある者と認められ、・・・

 キリストを信じる信仰による義、すなわち進行に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。ピリピ37

 私達は「うしろのもの」=「過去の出来事」にとらわれやすく、縛られ、振り回されやすい存在である。

「兄弟たちよ。・・・私は・・・うしろのものを忘れ・・」313

「成人(霊的に充分成長した大人)である者はみな、このような考え方をしましょう。」315

「トラウマ」になってしまうような過去に支配されることなく、前に進もう。

 「ただこの一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、(トラウマに人生を支配されてはなりません。

 あなたの人生は過去にではなくこれからにあるのです)・・・目標を目ざして一心に走っているのです。」31314

 

②「望み」に生きる人生とは今をしっかり生きる人生である!

「それはそれとして、私たちはすでに達しているところ(今)を基準として進むべきです。」316

「・・・確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」IIコリント62

「これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。」詩篇118:24

映画の一節・・・今日という日は、私の残りの人生の”最初の一日”なのです。・・・

パウロのように私たちも過去に振り回されず、またいつまでもくよくよせず、今日を精一杯生きよう。

 

「望み」に生きる人生とは未来(天国)志向で生きる人生である!

彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

ピリピ3:19~21

人生の究極の目的、究極の生き方、究極の使命を知って毎日を生きている人は輝いています。

モーセは「自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」詩篇90:12 と祈った。

だから彼は活力に満ちた人生を生きたのである。

私は、すでに得たのでもなく、完全にされているのでもありません。ただ、捕らえようとして、追及しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえて下さったのです。

兄弟たちよ。私は、すでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。 ピリピ3:12~15

 

 

 

 

 

2016年8月21日

「わたしにつながっていなさい」

 ☆メインテキスト☆

わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます。 ヨハネ1512

 

①わたしはまことのぶどうの木

 主イエスはご自分を「ぶどうの木」に喩えて語られている。

 「ぶどうの実」は甘く美味しい果物、特に生水の飲めない中東の砂漠地帯にあってぶどうの実は「豊かさ、癒しの象徴」であったし、その実がなる

「土地」は豊かな良い土地である、と人々は考えていた。(民数記1312

 しかし、くねくね曲がっていて、木材としては使い物にならない、貧弱な見栄えのしないぶどうの木エゼキエル1515)、

 「支え棚」に枝を這わしながら育ち、大木とはならず、害虫や病気に弱いぶどうの木、、、

 ここから痛めつけられ虐げられたあげく、ゴルゴダの丘に殺されたイエスキリストの十字架の影が見えてくる。

 ぶどうの木は、その年伸びた枝にだけ実が成る。おいしい実を成らすためには古い枝の剪定(手入れ)が必要。

 枝である私たちはみことばによって清められ、余計なものを取り除き、さらに御霊の実を結ぶクリスチャンとなれるように、と祈るべきである。

 私達のつながるべき真の幹はこの世の幹(富や財産、地位、名誉、健康)ではなく、

真の父なる神様が管理しておられる 真理であり道であり命であるまことの幹である。

  ②わたし(イエス)につながっていなさい

 わたしたちはどのようにしてぶどうの木につながればよいか?

 「わたしがあなた方に話した言葉」によるとある通り、聖書のみことば、福音、説教、お互いの証詞によって

 わたしたちはキリストとつながる「幹に枝が留まる」。 ヨハネ153以下には「とどまる」という言葉が9回もでてくる。

 更に順序は大切。  ⅰ)わたしに留まりなさい。そうすれば ⅱ)わたしもあなた方に留まります。  

 「聞く耳のあるものは聞きなさい。」  主は私たちに無理矢理みことばを食べさせようとはしない。

 まず、私たちが率先してみことばを食べるべきである(聖書を読む、礼拝の説教を聞く)。

そして留まる=途中であきらめないでそれらを続けるということである。

  ③愛の内にとどまる。

ただしゃにむに必死に、何とかして実をつけようと努力する必要はない。また、それはできることではない。自分の力では続かないから。

「、、、私を離れては、あなたがたは何もすることはできないからです。(ヨハネ155

また時に「日曜日くらい休みたい、教会生活煩わしい、奉仕、献金が大変だ、、、

 というようにイエス様のみことばから離れようとする誘惑「わたしから離れる」はたくさんある。

 また離れた方がなんでもできる気がする時があるが、そんなことはない。

 主のみことばにひたすら留まり続けること、それが豊かな実をつけるための絶対条件である。  

 「一つのことを主に願い、それだけを求めよう。命ある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝をむかえることを。」詩編27:4(新共同訳)

 

 

 

 

2016年8月14日

「苦難の日に気落ちするとき」

苦難の意味とそれを乗り越える力について考えたい。
神を信じるクリスチャンにも人生の苦難は普通に襲う。
 
☆メインテキスト☆
[新改訳]  箴言
24:10 もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、あなたの力は弱い。
 
☆メッセージ☆
①苦難はあなたがあなたの人生を輝いて生きるためにある!
金子みすずの詩にある「みんな違ってみんないい」、人間も同じ。「あなたはあなたであればそれでいい。あなたの音色はあなたしか出し得ないのだ。
「ヨハネよ、(「あの人はどうですか?」などと言わなくて良い。)あなたはわたしに従いなさい。それで十分である。」キリストは弟子にそう言われた。
嫌な言葉、プライドが傷つく言葉、出来事、そんな錆が自分を弱くしている。それを気付かせるために「艱難辛苦」というヤスリで心のアカや錆を落とさなければならない。
27:17 鉄は鉄によってとがれ(研磨され)、人はその友(というヤスリ)によってとがれる(研磨される)。
そういうふうに捉えるなら、試練も苦難もあなたの「宝物」であることがわかるはず。
苦難は主にあって生きる力、輝く力、幸せになる力となる
主キリストは私たちがこれらの苦難に勝利するため十字架にかかられたのである。
 
②苦難はあなたが思慮深い人になる為にある(試練をエネルギーとする)!
試練や悩みがあるたびに私たちキリスト者の器は大きくされていく。
苦難という肥料によって、思慮深さという実りが豊かにされていく。
詩編119:50 これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。
折々にかなった神のみ言葉によって私たちは助けられ、人生は深まりを見せる。
詩編119:71 苦しみにあったことは、わたしにとって幸せでした。私はそれであなたの掟を学びました。
 
③苦難は人間として最も大切なもの(神の愛)をあなたに提供するためにある!
人間として最も大切なものは何だろう? いのち? 財産? 健康? それとも長寿?・・・否、
それは「神の愛」である。私たちは神の私たちへの愛から離れてひとときたりとも生きてはいけない。
だから聖書全体を貫くテーマが「愛」なのだ。
その愛をイエス・キリストは十字架という形で具体的に私たちに示して下さった。
詩人ジョン・ダン ------君は神が君を愛しているほど、神を愛しているか?・・・人がかつて神のように造られたことは、大変なことだった。けれども、神が人のように造られたことは、もっとずっと大変なことだったのだ。-----
IIサムエル23:14~17 ダビデについての記述。
ダビデの願望を知った三人の勇士がペリシテ軍の陣営を突き抜けて、アドラムの要害からベツレヘムまで岩山や砂漠を越え「ベツレヘムの井戸の水」を携えてダビデに持ち帰った。
部下たちの深い愛に感動したダビデはその水を飲もうとはせず、それを注いで礼拝を捧げ主に祈って言った。
IIサムエル23:17 主よ。私がこれを飲むなど、絶対できません。いのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。
苦難の真中にあって、神を礼拝することを選択したダビデ。
苦難と渇きがダビデの主への愛をさらに研いだのである。